34.夢を過ぎても


 夏が過ぎた。
 夏が過ぎても、棗恭介は学校に戻っていなかった。

 遠い大学病院まで搬送された、一番の重傷者である――というのは、確かにその通りだった。だが、それだけではない何かがありそうだった。リハビリに積極的でない……という医師の相談を受けて、結局その病院に赴いたのは、天野寮長だった。

 棗恭介の病室には車椅子が置いてあった。話には聞いていたが、まだ足で歩くのは難しいという。そんなものには一番縁がなさそうなヤツが……と思ったが、その表情を見て、少し肩をすくめた。
「棗くんさ」
「……何だ」
「ちょっと散歩しない?」

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 車椅子を押し、ナースステーションでひとこと断ってから、エレベータで1階に降りる。日曜の人気のない通路を通って、ふたりは前庭に出た。
 秋が近づいているからか、透き通って高い青空だった。陽が燦々と差している。棗恭介は右手を目の上にかざした。
 前庭はそれなりに広くて、車椅子でゆっくり回るぶんには、それなりに時間をかけることができた。
 特に交わす言葉もなかった。が、恭介の様子をしばらく見て、なんとなく察するところがあった。当たり外れは知らないが、とにかく天野寮長は話をしてみることにした。

 木陰のベンチの隣に車椅子を停めると、天野寮長はぽすりとその隣に座った。
 天野寮長は空を見上げた。いい空だと思った。
「なにか、あったのね」
「……」
 恭介は無言だった。
「かなちゃんから聞いたわよ。現場で、棗くんと直枝くん……なんだか様子がおかしかった、って」
 ふ、と恭介は顔をそむけた。あたりか、と天野寮長は思う。
「……寮長なんてのをやってるとね、いろんなトラブルが舞い込んでくるのよね。大きなものから小さなものまで、いろいろ」
 恭介に聞いている風はない。だがまあ、そこは恭介の領分だ。踏み込むこともない。天野寮長は話を続ける。
「でさ、どかーん、って大きな問題が起こるとね、それに引きずられて、色々溜め込んでたものが出てきちゃうことがあるの。たとえば、学園祭の出し物をどうする……とか、みんなで決めなきゃいけないことがあるときに、日々の鬱積が出てきちゃう、とか……」
 話しながらあれやこれやを思い出し、天野寮長はやれやれと息を吐いた。
「そういうときにどうするかっていうとね。とりあえずしばらく時間を置くのよ。溜め込んだものって、溜め込んだ時間のぶんだけ、重くなっていくからね。そういうのって、時間を置くことでしか解決できないのよね」
「時間を、置く……」
 恭介が呟いた。初めての反応だ。
「そ」
 天野寮長はにっこりと笑った。
「事故のときに何があったかは知らないわ。でも、そのせいぜい数分だけで、直枝くんや棗さんと顔を合わせられなくなるほどのことが起きるって、考えにくい。だから、いろいろと……もしかしたら、よ」
 恭介の様子をちらりと伺って、天野寮長は続けた。
「もしかしたら、棗くんと直枝くん、なにかすれ違いみたいなのがあったんじゃないかなって思うわけ」
 恭介は小さく息を吐いた。当たらずしも遠からず、らしい。それを自分で判ってるってことは……
「事故のときに、全部吐き出せた?」
 一瞬あって、恭介はまた呟く。
「ああ……」
「直枝くんも」
「たぶん、な」
「それなら、よかった」
 天野寮長はうーん、と背伸びをした。
「そうしたらね、時間を置けば、ちゃんと話せるようになるの。どれだけ時間がかかるかは、人によるんだけどね。棗くんは、どう?」
「俺は……」
 言葉尻がすぼんで消えた。だけど、悪くない感じだな、と天野寮長は思う。
「無理しないでいいのよ。でも、話ができるな、って思ったら、ちゃんと行かないとダメ」
「そうか……」
「勇気、ね」
 言いながら、それが難しいことなのだと天野寮長にもわかっていた。でも、棗くんと直枝くんなら……とも思う。
「大丈夫。根拠ないけど」
「根拠なしか」
 その声に、ふと天野寮長は棗恭介の顔を見た。声が――笑っていると思ったのだ。そして、また天野寮長も笑顔を浮かべた。棗恭介は笑っていた。たぶん、数ヶ月ぶりのことだろう。

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 そうして天野寮長は病院を辞した。
 何しろ車椅子なので、見送りはなしだ。それは別に構わなかった。見舞いとはそういうものだと思う。
 だが、病院の前庭を門に向かって歩き始めて――天野寮長は満面の笑みを浮かべた。そこに、知っている姿があった。
 神北小毬だった。その斜め後ろについて、直枝理樹が、その陰に隠れるようにして棗鈴が。
 そのまま天野寮長は足を進めた。
「寮長さん」
「ん」
「行ってきますね」
「うん、行ってらっしゃい」
 それだけで神北小毬には通じた。
「理樹くん、鈴ちゃん、行こう」
 二人はそれぞれにちいさく頷いた。
「そんな顔しないで。大丈夫よ、きっと」
 笑顔でさらりと言うと、二人はもういちどちいさく頷く。今度はましな顔だな、と天野寮長は満足げに思った。

 病棟に向かう三人を見送ってから、天野寮長は病棟に背を向け、門をくぐった。
 空を見上げる。さっきと同じ、青空。
 いい日だな……と天野寮長は思う。その足取りが少し軽いのに、自分では気づいていないようだった。

⇒エピローグ


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