恋する女の子のごくありがちな悩み――のような光景

 春は遠い昔、夏はまだ来たらず。
 そんな季節の夕暮れは毎日のように遅くなってはいくけれど、5時を回れば夕焼けに空は染まり始める。
 ゆるやかな光の射し込む寮会室で、二木さんはほうと頬をゆるめた。
「今日はこれくらいにしておきましょう」
「そうだね。もう下校の時間だ」
 了解の言葉を返す。警備員さんが回ってくるときには、撤退の準備を整えておく必要がある――これは二木さんの決して曲げない流儀だった。
 梅雨の間の貴重な晴れ間、夕焼けとあってはさらに。
 警備員さんが鍵を閉めて、礼をすると、ぼくたちは校舎を後にした。寮までの僅かな道のり、学業と仕事を忘れての時間、誰の邪魔もされぬ静かな二人の時間だった。

 朱に染まりつつある空、その大気に照らされて僕たちもまた朱。
 静かな空間がそれに溶けている。
 砂混じりの道を行く僕らの足音。リズムがなんとはなしに合わさる。

 感情の波のようなものを、ふと感じた。
 感じてとなりを見ると、それを契機にして二木さんは足を止めた。蝉の鳴き出す前の夕暮れは静寂。

「どうしたの」
 問うと二木さんはしかと僕の方を見て、震えない声で、しかし不安を込めて言った。
「直枝」
 僕は二木さんの頬に手を当てて、黙って口づける。フレンチ・キス。

 そのままふたり、道ばたに座り込む。
 ふしぎと、世界は二人のためだけにあるようだった。

「幸せだわ」
 二木さんがそのテクストに反するコンテクストを以て言う。
「うん」
「でも、これはいつか失われる予定調和のもとに成り立っていることなの」
「予定調和? 失われる?」
「砂上の楼閣、バベルの塔」
「神の怒りを以て?」
「そうではないわね」
 二木さんは頭を振る。
「葉留佳は私の手から失われる運命にある。直枝、あなたも、私のとなりにいるこの瞬間のことを、直枝、忘れてしまうのよ」
 ひどく予言者じみた二木さんの言葉だった。
「忘れる? 僕が?」
「そう」
「忘れないよ」
「そうはならないわ」
「嘘じゃない」
「嘘って言っているわけじゃないの」
 二木さんは空を見上げる。朱。朱。朱。
「ただ、そうあるだけ」
 らしくもない、少女じみた想像、もしくは憧憬?
 だが、こちらに向けられた決然としたその顔は、二木さんが――不思議なことに――何かしらの確信を以てそれを言っていることを、厭が応にも理解させた。
「直枝……」
 二木さんは僕の胸に顔を寄せる。そのひどく弱々しい背中を抱きとめた。
「大丈夫、僕はここにいるよ」
「違うのよ……」

 頭をふるふると振って、二木さんは言う。泣いている? まさか。
 だけど泣いている。
 二木さんの言葉がわからない。
 それが自らをひどい不安に駆り立てていることに気づく。
「大丈夫」
 それだけをやっと言葉にした。それは僕自身に向けられた言葉でもあった。
「大丈夫だから……」
 二木さんは、声をあげずに涙を流している。僕はそれをどうすることもできず、だけどただ二木さんのそばに居続けている。


虚構世界にて。

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