「〜〜〜〜〜っ!!」
二木さんの目からじわりと涙が溢れた。
言葉をなくして、顔を真っ赤にし、顔をいくらか上げて中空を睨んでいる。
何もない平穏な休日、だったのに。
それがなんで、こんなことに?
そこまで考えてぼくは、とあるひとつの可能性に思い至った。まさか、
「まさか……」
あり得ないとは思いながら、恐る恐る、
「二木さん――サビ抜きって言い忘れた?」
黙々とマグロの握り(赤身のサビ抜きだ)といくらの軍艦(これもサビ抜き)を交互に食されている二木さんは、ひどくご機嫌斜めだった。
先ほどの大事件――サビ入りマグロ握り事件――以来、かれこれ5分はそうしている。
もちろん僕は、それが半ば照れ隠しなのは知っているけど、こういう内向性イライラモードに突入した二木さんの放つオーラはなかなかに強力だ。
周りに座っておられるお客様がた(その大半が子供連れファミリーだ)の、こわごわとしつつも非難めいた視線は僕にも浴びせられている。他人事ではない――二木さんのことなのだから当然なのだけれど。
まったく素直じゃないんだから。
「二木さん」
「何よ」
「玉子握りとか、どう?」
「玉子握り?」
二木さんは、まだ些か恨みの籠もった(八つ当たりだ)視線を僕に向けた。
「あれは寿司における食後のデザートのようなものよ。このタイミングで食べるのは無粋だわ」
「一般的にはね」
二木さんの言は正しい。粋無粋の問題だけではない。寿司は食べる順でその味わいが変化する繊細な食べ物だ。たとえば脂ののったトロのあとに白身魚なんてのは、これは許されない暴虐だ。白身魚の味が完全に失われてしまう。玉子握りが最後にくるのも、その味わいを存分に活かそうと苦闘する、人類の長い歴史の果ての英知の結晶なのだ。
もちろん、マグロとイクラとカンピョウ巻の三位一体を楽しむばかりの二木さんには、余り関係のない話ではある。
「でもさ、まだ辛いんでしょ?」
「……」
「口の中にワサビが残ってる感じ」
「……そうよ」
「それなら、たぶんちょうどいいんじゃないかな。うまいことバランスが取れると思う」
「ふうん……」
二木さんはちょっとだけ考えると、
「それもそうね」
あっさりと前言を翻して
「玉子握り2つ」
と職人さんに声をかけた。あいよ、と威勢の良い返事が返ってきた。
「2つ?」
「そうよ」
「二木さんの?」
「直枝、あなたも食べるのよ」
「僕!?」
「私にだけ無粋な真似をさせるつもりかしら?」
「いや……そんなことは」
「なら、いいじゃない」
「……わかったよ。ご相伴にあずかる」
「そうしなさい」
微妙に機嫌を持ち直した感じの二木さんだった。
ともあれ、慎重かつ綿密に検討された僕の注文計画は、この瞬間、無惨にも破綻を迎えたのであった。
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もちろん、本物の寿司屋になんて学生の身分で入れるはずもなく、僕たちがやってきていたのはいわゆる回る方の寿司屋だった。
デートで回る寿司屋かよ! と突っ込みを受けるかも知れないけれど、回転寿司というのは決して一概には非難できる性質の店ではない。港に併設された回転寿司屋は、そんじょそこらの街の寿司屋とは比較にならないくらいにおいしいのだ。
そもそも、ここで回っている皿を取るような客は、一見さんくらいのものだ。カウンタの中では職人さんが控えていて、注文すればすぐに握ってくれる。店内には「今日の水揚げ」が張ってあって、そのとおり、実に新鮮な魚が寿司になって出てくるのだ。中間マージンがないぶん、お値段もリーズナブル。回転寿司を名乗って、いくらかの皿を回しているのは、要するに「お高い寿司屋じゃありませんよ」というエクスキューズに過ぎないわけだ。
もちろん、マグロとイクラとカンピョウ巻の三位一体を楽しむばかりの二木さんには、余り関係のない話ではある。
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「玉子握り二丁、お待ちっ」
掛け声とともに、カウンタに皿が差し出される。
「どうも」
言って受け取ると、ひとつを二木さんの方に回した。
「ん、ありがと」
ふたり、玉子握りを頬張る。たしかに、無粋と言える行為だけど、まあデートなのだ。別に構いやしない――とさっき割り切った。
「おいいしいわね」
二木さんが頷く。
「たしかにこう、アレが中和されるかも」
「でしょ?」
「うん。正解ね」
ようやくお姫様のご機嫌も直ってきたようだ。
僕が言うのもなんだけど、まったく難儀な子である。
店を出るころには、二木さんはサビ入りマグロ握り事件のことなどすっかり忘れてしまったように、満足そうな笑顔をしていた。
しかしだ。
二木さんは結局、マグロとイクラとカンピョウ巻と玉子握りだけで昼ご飯を済ませてしまったのだ。あら汁もなしとは、正直信じがたい。
味覚がお子様というのは知っていたけど(もちろん口には出さない)、これほどまでとは。
たしかにこれでは、食べる順番まで計算に入れても、余り意味がなさそうだ。
求解に必要ないパラメータは除去してからかかるべし。妥当な戦略ではある。
「ふう……」
隣で二木さんが満足げに息をつく。
思わずくすりと笑うと、二木さんが僕の思考を嗅ぎつけたか、
「何よ」
と少しとげのある言葉を発した。こういうのを以心伝心というのだろうか。
「なんでもないよ――二木さんはかわいいなあと思って」
「な、何それ……」
奇襲攻撃に二木さんは目を丸くした。そういうところもまた、かわいいと思う僕だった。
漁港の回転寿司屋のクオリティは異常。
理樹は多分、アンキモとか白魚とか鯖とか白子とかのひと――いや、こりゃ僕(瀧川)の趣味を並べてるだけだな。脳内設定ですらねえ。