クドわふたーのAfter篇のそのまたアフター、または夜明けのうた

『無事だ! ストルガツカヤ博士は無事だぞ!』
 西太平洋に展開中のロシア海軍極東艦隊、その旗艦、原子力空母ミンスクからの第一声がそれだった。
『繰り返す、こちら“プロジェクト・イカロス”回収班! ストルガツカヤ博士は現地時間0348時、ソユーズTMA-18で地球に帰還した! 博士は無事だ!』

 半時間ほどして、厚木から飛来したSH-60<シーホーク>がクドリャフカと直枝を乗せて東へ――陽の昇る方角へと飛び去っていった。現地時間と時差が2時間、まだ日本の空は暗い。
「厚木に戻って、グアムかどこかを経由して――『ミンスク』まで7時間ってところね」
 意外な声に振り返る。
「あなた、行かなかったの?」
「無事が判れば、いつでも逢えるからね。親子の感動の再会を邪魔しやしないわよ」
 彼女――氷室さんは、にかっと笑って云う。
「それより寮長――」
 組んだ腕を解くと、その手には質実剛健といったつくりの小さな瓶がふたつ、握られている。
「――ロシア風の祝杯をひとつ、どう?」

「ロシアじゃ、アルコールは11歳からなんだから、大丈夫よ」
「ここは日本ですっ!」
 反論しつつも、手には栓を抜かれた小瓶――ウォッカの瓶。先刻、氷室さんの強引さに押し切られるかたちでの敗北と相成った。
「それじゃ、ザ・ズダローヴィエ!」
 氷室さんは勝手にそういうと、私の瓶に彼女のそれをかちんとぶつけ、ウォッカを呷った。乾杯、か。確かにめでたい日ではある。
「ザ・ズダローヴィエ<乾杯>」
 小さく云って、わたしはそれを少しだけ舐めた。
 事前に確認したアルコール度数は50度と少し。ウォッカにしても高めの数字だった。
――ひどい匂いがして、ふっと一瞬、意識が遠くなる。
 酒類を口にするのは初めてではないが(好きこのんで、ではない。念のために)、この瞬間というのはどうにも苦手だ。
 まあ――私は思う――氷室さんに免じて、今晩は一席、つきあってあげよう。私からしても、感謝の念は尽きないのだ。本当に。

 家庭科部室からは東の空が見えて、日本時間で4時を回ろうとする空は、ほんの少しだけ薄明るくなりはじめている。

「最初はね、心配してたのよ」
「何がですか?」
「あの子が、極東の未開の島国で、一旦どんな有様になってるのかって」
 我が祖国に対するその言いざまは置いて、
「そうね」
 短く答える。
「それで、どうだったんですか?」
「びっくりした」
 氷室さんは笑う。
「だって、元気なんだもの。あのリャーチカが」
 アルコールが回り始めたか、氷室さんの目には少し赤みが差している。
「知ってる? あの子、酷い顔をしてたのよ?」
「テヴアを去る日、ですか?」
「そ。見送ったけどね、まともに話もできなかった」
「……」
「それはね、もう、後悔だか怒りだかわかんないもんで、胸がいっぱいでね、こっちも冷静じゃなかったわ。当時は若かったのね、私も」
「今は違う?」
「『夢破れたり』、っていうことは、体験しないと判らないのね」
「ふうん……」
 わたしはウォッカの瓶にまた口をつけた。
 今度は、最初より幾分マシだった。『水』の意を持つ酒。確かに、日本酒なんかよりはずっと抵抗がない。
「ああ……だからいっそう、びっくりしたのかも。なんで、『夢破れたり』のリャーチカが、あんなに元気なんだ、ってね」
 氷室さんはそこで私をしげしげと見て笑った。
「な、何ですか……」
 さすがに少し腰が退けた。気味が悪い。
「リャーチカから聞いてるわよ。寮長、リャーチカの姉貴分だったんだって?」
「ああ」
 その話か。
「……そういえば、氷室さんも、テヴアではクドリャフカの『姉貴分』だったとか」
「そうね。つまり私たちは、姉貴分の同志、ってワケ。そうじゃない?」
「ううん……」
 積極的に認めたくはないが……
「そうかも知れませんね」
 それを云われたからと否定するほど、氷室さんが嫌いなわけではない。
 私の答えを聞くと、氷室さんは大いに笑った。少しだけ、心がざわめいた。遠くから吹く風に揺れるようにして。
「……でももう、クドリャフカは私を必要としないわ」
「あら、嫉妬?」
「……」
 嫉妬? 確かに羨ましい、と思った。それは嫉妬、かも知れない。でも、誰に対する?
 少しもやのかかった頭のまま、その問いに答える。
「……氷室さんは、これからもクドリャフカど同じ道を行くんでしょうね。でも、わたしは違う。嫉妬といえばそうですね」
「んん?」
 氷室さんは、目を丸くする。それから、呆れたように声を発する。
「いやいや寮長さん、私が言ってるのはそうじゃなくて……」
 そしてウォッカをがぶりと呷ると、続ける。
「あなた、失恋したんじゃないの、ってこと」


「別に、あなたとクドリャフカの関係がどう、って言ってるわけじゃないのよ。ただ、恋っていうのは、それとは別問題だからね」
「判ってます」
「あはは、そりゃ結構!」
 からからと笑う。ウォッカが減っていく。私のそれも、だ。
「でも、本当に自覚なかったのね。驚きだわ」
「……」
 そういうのには、疎い。自分のことながら、全く笑える話だった。
 ため息をひとつ。妙に熱いのはウォッカのアルコール成分のせいだ。
「誘って良かったわ。もしかしたらそうかもって思ったのよ」
「それは……」
 迷いの中に言葉尻が消えた。ありがとう、というところだろうか。
「いいってことよ。休みの間中、寮長には迷惑かけっぱなしだったから、そこはおあいこで」
「あれが全部帳消しか……ま、」
 その続きを呟くように言った。
「ちょうどいいかもね」
「そうそう!」
 氷室さんの視線は強くて優しくて――そうか、と思い当たる。
 これが、妹分に向けられる、姉貴分の視線なのかも知れない。
 自分にそれが出来ているとは思えなかった。
「私、何だったのかな……」
「悩みなさんな、若人」
 今度は諭すように、氷室さんが言った。
「あなたは誰かの助けになっているのよ。確実にね。誇りなさい」
「……」
「みんな感謝してるわ。リャーチカも直枝君も……もちろん、私もね」
 言って、氷室さんはにやりと笑う。
「もっとも、それを自分の救いとするかどうかは、あなたが決めることだけど」
「……」
「すぐにとは言わないけどね。こういうのは時間がかかるものだし。でも、さっさと流しちゃったほうがいいこともあるわよ」
「……」
 さっきから何も言えない。
 そんな私を見て、氷室さんは小さく頷いた。
「ま、いいわ。今はとにかく――」
 そしてウォッカの瓶を目の前に掲げる。
 随分と減っていて、もう少しでこの宴はお開きになるだろう。
「――私たちの少女時代の、大いなる失恋に、乾杯」
 はっと目を見開くと、氷室さんが瓶を振っていた。
 まさか――そうか――。
 わたしは手に持った瓶を(こちらも殆どカラだった)、彼女のそれに、かちん、とぶつける。
「乾杯」
 そして二人で、文字通り乾杯した。

 瓶を卓袱台に置くと、鳥の鳴く声が聞こえた。
 窓の外を見やる。
 それは今まさに――夜が明け、太陽が昇ってこようとしているところだった。


予告通り、ひむかなです。結構いいコンビだと思うんですよね。氷室さん誘い受けと思わせつつ、かなたんがどうしても攻めには転じないので結局氷室さんが攻めるという。

ちなみに氷室さんはガチ百合の想定(死


戻る