『〜獄門島〜』外伝1:伊豆元島民俗資料館にて

 幕末期、現在で言う日本国の領域を実効支配していた政権、徳川幕府は、その行政機関所在地である江戸について、三段構えの防衛圏を設定していた。

 1つは、江戸城と城下町そのものを防衛する海上要塞・7つの台場(現在は埋め立てが進んで判らなくなっているが、江戸城は殆ど江戸湾に接する場所にあった)。
 もう1つは、現在の東京湾にあたる江戸内海の入口を固める富津岬―観音崎防衛線。
 最後の1つが、相模灘に対する侵入を阻止する城ヶ崎―伊豆元島―洲崎防衛線である。

 幕府海軍奉行・勝海舟は、この最外郭の防衛線の要石、伊豆元島に、外洋における幕府海軍の本拠地を置いた。無論、合衆国海軍の江戸侵攻に備えてのことである。
 しかし、皮肉なことに、榎本武揚率いる幕府海軍の最初で最後の戦いは、新政府軍との艦隊決戦であった。大英帝国海軍の支援を受けた新政府艦隊に幕府海軍は完敗を喫した。これが西郷隆盛―勝海舟会談と、それに続く江戸の無血開城の直接のひきがねとなったことは言うまでもないことだろう――

――説明を読んで、僕は再び、目の前の黒く巨大なそれを見上げた。それは遥かな時代の重みを以て僕たちを睥睨していた。船――いや、それは軍艦だった。幕府海軍の旗艦<開陽>、3本マストの堂々の威容がそこにあった。

 全長72.80メートル、全幅13.04メートル
 排水量2590トン、最大速力10ノット。
 16センチメートル施条長砲身カノン砲18門、同径滑腔砲6門。
 推進機関は蒸気内車(外輪船に非ず、の意だ)。

 遠い時代の主力艦にして、敗軍の将だった。

 今から1と半世紀ほど前、1868年の夏。
 その日の空は、晴れ渡って、雲ひとつなかったという。
 往時の<開陽>が見た最後の空だ。
 それから時は流れ、明治維新100周年を記念した1968年の調査で、<開陽>は沖合の海底から発見された。
 東京オリンピックに日本万国博覧会という些かバブリィな時代背景もあり、<開陽>はここ、伊豆元島民俗資料館に観光資源として復元されることになったのだった。

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「こんなものが残っているなんて、知らなかったよ」
「そう? 歴史の教科書にも出てくるけど」

 二木さんの些か冷ややかな声。確かに僕は、熱烈な学問の徒とは言い難い。

 この船は、伊豆元島民俗資料館の最大にして異質の展示物だ。
 伊豆元島沖会戦は、この比較的穏やかな島の歴史にあって、最もインパクトのある事件とされている。伊豆元島は、どちらかというと、人文地理的、博物学的な見物の方が多い島なのだ。
 実際、筆島、地層大切断面、五峰火山と自然の驚異を一日かけてみて回った。普段触れることのない大自然は、僕たちの心を大いにに癒し、活力を与えてくれた。
 だが、そして夕方、一日のおわりに辿りついたこの一隻の船――その静かな存在感は旅の終りにひどくしっくりとくる感じがした。

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 伊豆元島民俗資料館には、この<開陽>のほかにも、何隻かの船の部品が展示されていた。
 その中には、いわゆる『異国船』のものもあった。

「<開陽>が沈めたのかな……」
「異国船打払令?」
 先を歩く二木さんが、ちらりと振り返って言う。
「可能性もあるけど、単に嵐で沈んだのかも知れないわ」
「嵐?」
「そう」
 二木さんはその『異国船』の発掘された竜骨の前で立ち止まった。
「獄門島の浮波港が、どうして栄えていたかは、知っているでしょう?」
「うん、風待ちの港って……あ」
「そういうこと」
 二木さんは頷いた。
「親潮と黒潮がのぶつかって、海流が入り組んでいるうえに、このあたりは嵐が多いのよ。台風も直撃する位置だしね」
「なるほど。土地勘のない異国船には、ちょっと厳しい海だね」
「そういうこと。実際、ほら」
 二木さんは説明板を指した。
「……なるほど。嵐で沈んだ、オランダの船だと」
「そういうこと」

 これはこれで、<開陽>とは違った趣がある。悲運の船のはずなのだけれど、目の前の枯れたような竜骨からは、奇妙に人の運命の重みを感じなかった。時の流れが、それらのものを遠くに運び去ってしまったのかも知れない。


ということで、外伝でした。これが『かなたんに関する短編群』と言えるかどうかは微妙なところ。

一応、本編で「ちょっと弱いんじゃない?」という指摘があった件についてのフォローアップを兼ねてます(読まれた方は判るでしょうか?)。位置づけとしては、本編3日目『海上の道』冒頭の数行に対応するシーンですね。

ところで書いてある内容は、例によって史実と虚構をそしらぬ顔でごった煮にしております。ゆめゆめ真に受けられませぬよう(笑)


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