玄関のドアを開けて、ただいま、とひとこと云うと、ばたばたという物音がして、廊下の奥に直枝が顔を出した。
「おかえり、佳奈多さん」
「ただいま」
応えて靴を脱ぎながら、漂うそれに気がついた。
「いい匂いね?」
「気がついた?」
「ビーフシチュー」
「正解」
理樹はにっこりと笑う。
「まだ少しかかるから、ゆっくりしてて」
「判った。着替えもあるしちょうどいいわ」
「そのくらいだと思った」
云って理樹はキッチンの方へと引っ込んでいった。
家に帰って、一通りの片付けをしてひと段落の頃に、だいたい夕飯は出来上がる。このタイミングを計ることにかけては、理樹ときたら外さないのだ。
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暫くして居間に顔を出して、私は声を失った。
立ちつくす私に、直枝はのほほんと声をかける。
「ちょうどいいタイミングだね、佳奈多さん」
「理樹……」
「なに?」
「何よ、これ」
唖然としながら問う。
これ。テーブルの上に並ぶそれら。
まるでフルコースの準備の如く、食器類が並んでいた。ご丁寧に、テーブルクロスまで掛けて、だ。
「お祝いだよ」
「何の」
「初仕事、お疲れ様」
云って理樹は――まるで奇術師のように――花束を取り出した。
訳が判らないままに、それを受け取る。
初仕事。確かに今日は私の初仕事だった。だが、それだけで、ここまで祝ってもらえるものと、私は微塵も思っていなかったのだ。
花束は結局、理樹が花瓶に生けて、テーブルに飾られた。
そして、ささやかなディナーと相成った。
料理はすべて理樹のお手製。
二人の食卓、もちろんサーバーなんていないから、それは理樹が兼任で、些か騒がしくはあった。それもまた優しい時間の彩りといったところだ。
前菜にスープ、白身魚のソテーにビーフシチュー。デザートにはケーキ。
ワインの白と赤をきちんと揃えてあるあたりも、理樹の気遣いだ。
ケーキを食べ終え紅茶を飲み終わると、私は手を合わせた。
「ごちそうさま――おいしかった」
「お粗末様でした」
理樹はというと、いつものように応える。それから、
「お茶でも淹れようか?」
と付け加えた。それはとても魅力的な提案だった。ここで云う『お茶』は、日本茶のことだ。洋風のディナーのあとでというのは些か場違いだが、我が家では夕食後の欠かさない習慣だった。
煎茶と少しの茶菓子を、ふたりで味わう時間。
テーブルはもう片付けられていて、いつもの日常が戻ってきている中で、飾られた花瓶だけがハレの日を主張していた。
ほう、と息を吐いて、私は云う。
「今日は、本当に、びっくりしたわ」
「そう?」
「こんなに盛大に祝ってもらえるなんて」
「これくらいしかできないからね、僕は」
理樹は困ったような笑顔をして見せた。
これくらい、ね。
その『これくらい』が、どれだけ私の助けになっているのか、理樹にはきっと判らないだろう。
その断絶、一方通行の部分が未だにあることに、最近は妙に安心したりもする。まだまだ、伝えたりないことがある、ということなのだ。それを確かめてみたくて、私は口を開いた。
「理樹」
「なに?」
「なんでもない。名前を呼んでみたかっただけ」
云うと理樹は目を丸くした。
理樹君は主夫もお似合いだなあと思う。
なお、名前で呼び合っているのは、名字で呼び合うことが原理的に不可能になっているということで、ひとつ。