月よりも遠い恋人

 夜、ふと起きて、窓の外、空に月が出ていたときのことだ。

 朧月夜だった。
 不思議なもので、月と私の間にうっすらと流れる雲があると、かえって月は随分近くに感じられる。
 この空を流れる雲の幾許か向こうに、それはあるように見えるのだ。
 そんな夜だった。

 私は葉留佳を起こさないように、そうっとベッドを降りる。少し考えて護身用のスタンガンを持つと(我ながら無粋なことだ)扉を押し開けて廊下へと出た。

 いわゆる丑三つ時、この時間の廊下は、緑色の非常灯といくつかの終夜灯がついているばかりで、ひどく物寂しげだ。秋も終わるこの季節では、灯りに惹かれて飛ぶ虫もいない。
 階段を登り、3階に出ると、そこからまた上を目指す。人が通らないぶん、少し埃っぽい階段を登りながら、ポケットの中の小さな鍵をもう一度確かめた。寮長特権、というやつだ。

 きい……と僅かに軋み、鉄の重々しい扉の間に、私は身を滑り込ませた。音をたてないように注意してそれを閉じると、私は切り離され、異空間たるここに独り立った。屋上だ。

 風がいくらか吹いている。山の方から吹いてくる、冬の匂いのする風だ。そろそろ葉も半ば落ちた木々が、さわさわと微かな音をたてる。その遙か上空には、たぶんここよりもずっと強い風に流され、月明かりに雲が万華鏡のようなきらめきを見せていた。

 これを見ているのは、私だけだろうか。

 ポケットの中の鍵、同等の意味を持つ男子寮のそれは彼が持っているはずだが、隣の屋上には人影ひとつない。片思いだな、と私は思う。

 思い出すのは、月に関する昔話。月に帰ってしまった男と、この地球<ほし>に取り残されてしまった女の話だ。
 地理的<ジオメトリカル>にはせいぜい十数メートルのところにいる彼は、月よりも遠い。

{「早く明日になればいいのに」,「明日なんて来なければいいのに」}という、ミンコフスキー空間上で矛盾する奇妙な感慨を抱く。
 双方ともが私の本音であり、要するに私は矛盾している。

 月ほどに離れてしまえば――もう逢うことがないならば――想いを抱えて生きることもできる。だが、明日逢える可能性があるなら(私の場合、可能性どころの話ではない。確実だ)、それは不安に変わる。不安とは即ち無限遠の消失点の距離であり、雲の向こうの月よりも、ずっとずっと遠いように思えるのだ。

 月よりも遠い恋人のことを想っていると、命題Aと命題Bの間で、減衰することもなく私は揺れ続ける。体がひどく冷えていることに気づくのは、いつも自分のくしゃみがきっかけだ。

 風邪をひいて看病して貰うのも良いけれど、彼に心配をかけるのは本意ではない――ここにももうひとつ、矛盾する命題集合が現れたが、それについて検討するのはまた今度にして、私は部屋に帰ることにする。背を向けると月が、さよなら、と云った。湯たんぽを温めなおして寝よう、と想った。


二木さんも女の子ですからね(失礼)。


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