酷い顔だった。
概ね見て、判った。
玄関のチャイムもなしに鍵の音がして、この顔だ。
なにかしらの予感があって、給湯器のスイッチは点けてきた。
「お湯、出るよ」
云うと、佳奈多さんは黙って僕の側を通り抜けて、自分の部屋へと入った。
静かに乱暴な音がした。
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さぁぁ……というシャワーの単調な音のむこうに時折聞こえる嗚咽を、敢えて聞こえないことにする。更衣室、洗濯機にもたれかかり、ただ無心を保つ。
磨りガラスのような細工のプラスチックのむこうから、僕の姿は朧気に見えているはずだ。それでいい。
1分、2分、3分……秒針が天頂を指すごとに、ただカウンタにインクリメントを施す。
4分、5分……最初の1バイトは呆気なく限界を超え、全加算器が稼働すると上位バイトが計数を開始する。
2バイトめは、さすがに使い切れないだろうな、とぼんやりと思う。
そのあいだにも、声はとぎれとぎれに聞こえてくる。
これが距離だった。
こういうときに思い出すのは、いつも、インディヴィジュアル、という単語のことだ。
邦訳すれば単に「個性的な」となるが、根源的な意味は、「これ以上分割不可能な」となる。対偶をとれば、要するに僕たちは、個人までは分割されてしまわざるを得ない存在なのだ。
これが距離なのだ。
だが――と、僕は思う。
ただそばにいる、ということは、それほど無力なことではない。
それだけで、僕たちは、なにものかに立ち向かっていくことができる。
そして今、佳奈多さんにそうしてあげることができるのは、他ならぬ僕だけなのだ。
ならば、そうするだけだ。
ただひたすらに無心に、僕はそこに居続ける。
洗濯機にもたれかかって、何の意味もなく、回る秒針を見つめて。
やがてシャワーの音が止むと、浴室のドアが開いて、佳奈多さんが出てくる気配がした。
視線を向けないままバスタオルを渡す。その体を拭う音がする。
為すべきことは変わらない。
たとえ、何も判ってあげることができなくても、だ。
やがて、湿ったバスタオルが押しつけられる。それを洗濯籠に放り込むと、
「寝よう」
とだけ云う。
佳奈多さんはそのまま寝室に向かうと、何も身に纏わないままベッドに倒れ込む。僕は灯りを消すと、その横にそっと横になり、一枚の掛け布団で僕たちを覆った。
「おやすみ、佳奈多さん」
そう言って、敢えて背を向ける。
何も言わないまま、佳奈多さんは、僕の背中に顔を押しつけた。
僕はただ、じっとそうしている。
静かな寝息が――寝ているときくらいは安らかであれかし――聞こえてくるまで、ただ、そうしていた。
11/22はいい夫婦の日らしいのですが、なんか、こんなイメージです。
素敵だと思うんですが、まあ、理樹君はこう、受難の日々ですねェ……(笑)