うみのむこう

 ただ穏やかな日々が続いている。
 代わり映えのしない日々。
 比喩ではない。永遠に繰り返されるの一学期――長い、長い時間だった。

「ね、お姉ちゃん」
「なに?」
「今日は、何しようか」
「そうね……」

 放課後だ。夕飯の時間まで、まだ暫くある。

 シフォンケーキの焼き方も、随分上手くなってきて、これ以上私に教えることはない。
 CD屋に通い詰めてお気に入りのポップスを聴き込んだこともあるけれど、それも随分前にやめてしまった。
 本屋には、一生かかって読み切れないだけの書籍があって、その書籍を全て読むことができる幸運を私たちは手にしているのだけれど、それは葉留佳の趣味じゃない。

 どうしよう。気晴らしに、どこかに出かけてみるか――そう思いつくと、ふっと浮かぶ場所があった。

「ねえ、葉留佳」
「ん?」
「海に、行ってみない?」

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 海は夕焼けの橙だった。
 今しも沈まんとしている太陽が海面に映って揺れている。
 ひどく異世界的なイメージのある絵だが、実際自分たちはその異世界にいるのだから笑えない。
 どこからも隔絶されたこの箱庭の、決して手の届くことのない、はるかかなたの水平線。

(あそこまで行けば、何か判るのだろうか)

 迷走する思考がそんな意味をアウトプットする。馬鹿な。首を振った。

 一方、葉留佳は、何を考えているのか、空と海とをじっと見つめている。

 ちらと見て、また視線をそこに戻す。
 まるで吸いこまれそうな構図だ――

『白鳥は 哀しからずや 空の青
   うみのあをにも染まず ただよふ』

「やあ、みおちん」
 葉留佳がごく当たり前のように隣に声をかけると、そこには日傘を差した西園さんがいた。

「珍しいですね、三枝さんや二木さんが、ここに来るなんて」
「そうかナ? ううん……確かに、『ここ』では、はじめてかも」
「たぶん、そうです」
 頷き、西園さんは、わたしたちの方に顔も向けず、続けた。
「どうですか、『ここ』の海<ここ>は」
「……よく、判んない」
 葉留佳はぽつりと言った。
「どうでしょうね」
 韜晦すると、西園さんは顔を動かして――何故か私の方を見た。
「二木さん」
「なに?」
「帰りましょう」
 そうは聞こえないのだけれど、言葉になぜか、強い意志を感じた。
「二木さん、あなたはここに来るべきではありません」

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 帰路、まだ空は橙だ。
 先を行く西園さんが、振りかえらずにぽつりと漏らした。
「二木さん」
「……」
 無言で続きを促す。
「海に行きたいと、あなたから?」
 その問いに、私は少し考えて、
「そうね」
 応える。それから付け足した。
「それがどうかしたの?」
 何か言い淀むような気配がした。待ってみる。数歩のあと、まるであきらめたような声。
「あなたは違うバスに乗っているんです」
「……!!」
 顔が引き攣るのが判った。
「そ……それが何だって……」
だから、あなただけは、この海に来るべきではない。あの海の向こうは――海の向こうなんです」
 西園さんは淡々と話し続ける。
「あなただけは、海の向こうに行くべきではない。少なくともまだ」
 頭にかっと血が上った。
「あなたに何が――!」
「お姉ちゃん」
 葉留佳の声がして、はっと我に返った。
「たぶん、そうだよ。みおちんの言ってることは、たぶん、正しい」
「は、葉留佳……」
「そうだね、忘れてたよ。わたしたちは――違うバスに乗ってたんだっけね」
 寂しそうな声の印象は、私の主観に過ぎないのだろうか

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 西園さんとは、校門のあたりで別れた。
「それでは、また明日」
 一礼をすると、そのまま去っていく。
 その後ろ姿を二人で見つめた。

『あなたは違うバスに乗っているんです』

 言葉が、心臓に刺さった刺のように疼く。
 判っている、そんなこと。最初から。でも。

 ただ立ちつくす私に、葉留佳は
「帰ろっか」
 声をかけてくれた。
 それだけのことなのに、涙が溢れてきた。止まらない。とまらない……。
「まったく……仕方ないお姉ちゃんですネ」
 葉留佳は優しく戯けると、ハンカチを差し出してくれた。
 葉留佳の体温と柑橘の香りのするそれは、私の涙を吸う以上に、溢れさせる。

 なんて――私は思う。

 一体、なんて――残酷なんだろう。


まとまらないなァ。

西園さんと来ヶ谷さんを便利キャラにするのは、ちょっと自重した方がいいのかもしれない。


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