そんな、言葉を伴わない会話(耳かき)

 暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもの、8月もそろそろ終わろうとしている島の夕暮れは、ヒグラシの鳴く声がかえって涼やかにも感じられる。夜になれば気の早い秋の虫たちの声も聞こえて、そうすると、あっという間に夏は遠ざかっていく。

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 本島の観光を終えて島に戻ってきた僕たちは、風呂の時間にもまだ少し早いと言うことで、居間でごろごろとしていた。
 差し込む夕陽のした、二木さんは板間の囲炉裏端でなにかの本を読んでいる。葉留佳さんと晶さんは、買い出しとかで港の方に出ていった。そして僕はというと――どうにも左の耳がごそごそするので、綿棒で耳掃除をしていたのだが……どうも、うまくない。
 引き抜いた綿棒を眺めるけれど、耳垢がついている様子はない。確かに耳の奥の方がごそごそして、ちょっと痒い。

「うーん……」

 唸ると、二木さんが顔を上げた。

「とれない?」
「うん……どうもね、気になって。この島って、耳鼻科ってある?」
「幸庵先生が何でも屋みたいに全部見てるけど、耳鼻科って言うなら本島ね」
「ううん、昼に行っておけば良かったかな……」

 ぱたりと二木さんは本を閉じて、横に置いた。そして立ち上がると、部屋の隅戸棚をあけ、何物かを取り出した。古めかしい、白いブリキに赤の十字の手提げ箱。救急箱だった。

「二木さん?」
「看てあげるわ」
「いいの?」
「ずいぶん痒そうだから」

 座って救急箱から耳かきとペンライトを取り出すと、もう一度立ってティッシュ箱を持ってくる。

「横になって」
「膝枕?」
「そうよ」

 ほう、これは珍しい展開だ。二木さんとはもう1年の付き合いだけど、膝枕なんてのはそう回数があるものじゃない。

「何よ?」

 いっぽう二木さんは怪訝な声だ。特にこれと言った感慨もないらしい。まあ、それもいいか。

「いや……うん。お願い」

 言って二木さんのそばに横になり、そのまま頭を載せる。

「左だったかしら?」
「そう」
「それじゃ、見せて」
「うん」

 右を下に、姿勢を変えると、太ももが頬に当たった。

――柔らかい。

 ふふ、と二木さんが笑った。顔が僅かに赤くなる。

「ど、どうしたのさ」
「なんだか直枝、子供みたいね」
「そうかな……」
「そうよ。よしよし」

 頭を撫でられる。ほんとうに子供扱いだ。何も言えないので、そのままじっとしていた。視界には囲炉裏と自在鉤、そのむこうの玄関が開け放されていて、橙に染まる空と山とが僅かに見える。ヒグラシの声が遠くに聞こえる。静かだ。

「それじゃ、動かないでね」

 声がして、

「ん」

 とだけ言うと、耳のそばに手が置かれる感触。たぶんペンライトを持った左手だ。少し暖かいのは豆電球のしわざかどうか。そして、耳にごそりと感触。背筋がすこしぞくりとした。

「大丈夫?」
「うん」

 頭を動かさないように答える。

「良い子」

 会話がそこで途切れる。
 ごそり、ごそり、いつの間にか目も閉じていて、世界は耳の奥のくすぐったい感触だけになる。それが二木さんの手のすることだと思うと、とてもやすらかだった。
 その手つきは優しくて、割と無愛想で通っている、学校の二木さんしか知らない人が見たら、きっと驚くだろうな、と思う。いま、二木さんはどんな顔をしているだろうか。真剣な顔か、淡々としているか、それとも幽かに微笑んでいるだろうか。
 そうだといいなと思うけど、二木さんのことだ、きっと真面目な顔で掃除してくれているんだろう。

「反対側」

声で意識が戻った。いつのまにか、耳の感触がない。終わっていたらしい。

「うん」

 答えて、今度は左側を下にする。左手が置かれ、ついで耳かきが右耳に入り込んでくる。
 やわらかな手つき、細やかな交感、ふたり、無言。
 今度は、意識が落ちるのが早かった――ように思う――

 その間際、なんだかとても遠い感触を覚えた。

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 気がつくと、鳴く虫が秋のそれに変わっていた。陽が落ちて夜になったのだ。身じろぎをすると、二木さんが気づいたか

「起きた?」

 といった。

「うん」

 答えると二木さんは、僕の頭を優しく撫でた。

「よく寝てたわね」
「ごめんね。起こしてくれてもよかったのに」
「いいのよ」

 撫でられているので起きることも出来ず、僕はそのまま二木さんに身を任せる。何も言わず、僕をあやすように、二木さんは手を動かした。
 ひどく遠い感触――ああ――それが何なのか、僕はようやく思い出した。
 母さん。
 遠い日の母さんの、これは記憶だ。
 すぅ、となにかが手のひらからこぼれ落ちていくような感慨。急に沸き上がるそれは不安だった。

「……二木さん?」
「なに?」

 手を止めて、二木さんが答える。僕は身を起こすと、そのまま二木さんを抱きしめた。
 二木さんは少し驚いたようだったけれど、何も言わずに僕の胸に頬を寄せてくれる。
 判らないけど、判っている
 そういうメッセージだ。
 僕はそっと、その背中を撫でる。
 ありがとう
 そんな、言葉を伴わない会話。
 僕たちはそうやって、しばらく、ただじっとしていた。


南瓜(@kaboII)さんからのリクエストで、正統派耳かき話でした。果たして正統派になってるでしょうか。

舞台は『〜獄門島〜』から1年後の夏休みかな。


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