その背中を押す、ということ

 私の話をひととおり聞くと、氷室さんはからからと笑った。
「寮長にしては、なかなか珍しいことしてるわね」
「そうよね。まったく私、何しているのかしら」
「自らの存在に疑問を抱きつつ、しかし前進はやめない! 立派な科学者の態度だわ」
 さっきから散々に茶化されているが、実際自分でも何やってんだかと思っているところ、反論のひとつもない。

 氷室さんには、夏以降、そうそう顔を合わせる機会があるでもない。ただ偶然、週末の学校で、次期イカロス計画の打ち合わせに来ている氷室さんを見かけたのだ。少し話をしてみたくなって声をかけ、そうしてふたりこの町のカフェで顔をつきあわせているというわけだ。これは貴重な時間を使わせてしまったわけで、クドリャフカにはあとで謝っておかねばならない。
 ともあれ。

「……私は科学者じゃありませんよ」
「人は多かれ少なかれ、科学者であり芸術家であり教師であるものよ……あれ? その喩えなら、自分の経験を人に伝えているわけだから教師? それはずいぶん偉そうじゃない」
「氷室さんが言ったんでしょう……」
「あなたに内在する要素を掘り当てただけよ。実際、どんな心境の変化かしら、寮長?」
「……」

 改めてそう問われると、よくわからない。だからこそ、年上であり関係者全員の知人であり部外者であり冷静な観察眼を持つ氷室さんに相談を持ちかけたわけで。
 私が黙っていると、氷室さんがぽつりと口を開いた。
「直枝君はいい子よね」
 明後日の方向から矢が飛んできた。どういう脈絡だろう。
「この夏のストルガツカヤ博士の一件も、リャーチカや私だけでどうにかなったとも思えないし。そういう意味じゃ、寮長にも感謝しないといけないわけだけど」
「? 私は何もしていませんよ」
「たぶんだけど、直枝君に何か言ったでしょう?」
「……」
「直枝君、ある日、積極的に関わるようになったのよ。私たちのイカロス計画に」
 そういえば、あの時のことだろうか、と思い当たる節があった。ミール2が軌道を離れ、ゆっくりと大気圏へと墜ちはじめた頃、夕食の前、裏庭で2言3言の会話を交わした。それなりに印象的なやりとりではあった。
「……どうしよう、って相談されて――直枝はクドリャフカをとても心配していました。たぶん、私の手前……というのを気にしていたみたいで、結構本気で怒ったんです。あなたはクドリャフカの友達でしょう、って。直枝の思うようにしたらいい、って。そう言いました」
「なるほど」
 納得した、というふうに氷室さんが頷く。
「何かあったんだろうなとは思ったけど、そういうことか」
「そんな大したことじゃないです」
「大したことなのよ、オトコノコっていうのは、そういう生き物だから。好きな女の子に頑張れっていわれたら、どんなにだって頑張れる」
 氷室さんの言う『好きな女の子』というのが自分のことを指しているのは明白だが、自分のことのような気がしないのが半分、恥ずかしいのが半分だ。

「馬鹿だなあとも思うけど、まあ、青春よね……で、今の話で何となく思ったんだけど」
「はい」
「要するにあなた、人の背中を押してあげられるようになったんじゃないかしら?」
 まったく意外な言葉が飛び出してきて、私は鸚鵡返しにした。
「人の背中を……押す?」
「自覚がない?」
「……」
 人のすること為すこと邪魔をするのが仕事だった私だ。その言葉は、己の己に抱くイメージとは真逆のところにある。
「だから、『押してあげられるようになった』って言ったのよ」
 氷室さんは諭すように言う。
「昔のあなたはよく知らないけどね、寮長、今の自分に戸惑っているって言うことは、自分が変わってきているってことよ」
「背中を、押す……」
「一歩を踏み出すって、とっても勇気の要ることだからね。たくさんのひとたちが立ち竦んでいるものよ。それこそ、リャーチカも、私もそうだったわ。天野さんもそう。違う?」
「そうですね。立ち竦んでいる……そう、そんな感じかも知れない」
「それで、何とかしてあげたいと思った。歩き出してほしいって思った。寮長はそう考えているように見えるわ」
「……」
「ま、いまのはあくまでも私の狭い観察範囲からの推論だから、正確さは保証できないけどね――もうひとつ仮説があるんだけど、聞く?」
 声には出さず、小さく頷く。よしよしと氷室さんは目を細めた。
「それはね、要するに寮長、直枝君に似てきたんじゃないかしら?」
「……!」
 目を剥いた。見ると氷室さんはにやにやと笑っている。
「図星? まあ、だとすると、寮長自身が人のお節介を焼くようになるのも頷ける。自分がなりたい自分を、無意識に見ているのかも知れない。どう?」
「……」
「直枝君はお節介焼きだからね。私の見るところ、そこに惚れたんじゃない、寮長?」
「そう……かも知れませんね」
 100パーセントの肯定をするには、ちょっと気恥ずかしい指摘だ。

「いいことじゃない、寮長。それができる人は、この寒い世の中、なかなかいないわ。立派――かどうかは知らないけど、素敵なことだと思うわ。私はね」
「そうですか……?」
「ええ。個人的な感想だけどね」
「氷室さんに言って貰えると……力強いです」
 それは本音だった。数少ない、頼れる年上の女性なのだ。というか、あーちゃん先輩が当事者になってしまった以上、相談相手をお願いできそうなのは氷室さんくらいのものだった。

 その氷室さんが、静かに語る。
「私はね、天野さんのことも、背中を押してあげればいいって、そう思うわ。その結果がどうなるかは判らないけど――天野さんは踏み出したがっている。一歩を踏み出すそのほんの僅かな勇気を欲している。それを与えてあげられるのは、一番近くにいるあなたに他ならないと、私は思うわ」
 笑顔で言い切る氷室さんに、私ははっとした。私も今、背中を押されているのだ。これが私に――
「私に、できるかしら」
「大丈夫、大丈夫。気楽にね。自然にそうなるわ。だって、そうしたいって思ってるでしょう?」
「そういわれては……やるしかないですね」
 あーちゃん先輩が――その恋が、私を必要としているなら、一肌脱ごうじゃないか。それはあーちゃん先輩への恩返しであり、もしかしたらおもしろおかしい未来に繋がるかもしれないとも思うし、なによりそれは、私自身の一歩の勇気の象徴でもあるのだ。


 ひむかな第二弾。そして二木さんに関する会話。理樹と付き合っていたら、こんな感じになるんじゃないかなあと。

 どうでしょ。


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