寮長室を意気揚々と去っていく天野先輩の背中を、ふたり眺めた。
「何なのかしらね、あの浮つきようは……」
天野先輩が姿を消すと、二木さんが頭を大きく振ってそう漏らした。心配を隠して、素っ気ない顔をしている。
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本日はバレンタインデーなり、天気晴朗なれども波高し。天野先輩が準備に大わらわだったのは、人づてに聞いている。
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「まあ、いいんじゃないかな。おどおどするより、ずっといいよ」
「それはそうだけど……あれじゃあ『私告白します』って吹聴して回っているようなものじゃない」
「微笑ましいと暑苦しいの間?」
「そうじゃなくて」
二木さんの口調に不機嫌の影が顕われた。
「情報戦の時点で負けているっていうの。恋敵の存在を認識しているのかしら。当たり前だと思って言わなかったけど、失敗したわね」
「恋敵?」
「直枝も判ってないのかしら?」
ジト目。二木さんの言いたいことはもちろん判る。
「他に恭介を好きな子がいるっていうこと?」
「想定しなさいって事よ。あれでも棗先輩、女子には人気なのよ」
「そうなのかな……」
恭介と言えば、バスターズの頼れるリーダーだけど、客観的に見れば相当なバカだ。もちろんそれはいい意味のバカなんだけど、それがもてる要因になるとは、なかなか思えない。そうすると。
「……顔?」
「それもあるわね。でも、顔立ちがいいっていうより、子供っぽい表情っていう意味よ。私たちと遊んでいるときのとか」
「ふうん?」
それは判らなくもない。無邪気な表情ってことだろうか。確かに恭介は、遊ぶときは徹底的に遊ぶ、楽しむときは徹底的に楽しむタイプだ。
「どっちかっていうと、庇護欲をそそるのよ。一見ね」
「ちょっと意外だけど、言われてみればそうかも」
「見ている子は見ているものよ」
「でも……正直、簡単じゃないとは思うよ、恭介は。これは天野先輩だけに限らずね」
「棗さんのこと?」
二木さんの言う『棗さん』は鈴のことだ。
「まあ、そうだね。恭介の、なんていうのかな……優先順位の一番に鈴がいるのは間違いないし……」
なにしろ本人が、恋愛ごとはしない、と断言してしまっているのだ。
「だからこそ、そこは天野先輩がやるしかないわけだけど。恭介からのアクションは期待できないけど、動き出せば僕たちでフォローもできる」
「ずいぶんあーちゃん先輩の肩を持つのね」
少しつんけんして二木さん。嫉妬? まさかね。だが、二木さんは言葉を続けた。
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「前から気になっていたんだけど、直枝はどうしてあーちゃん先輩を応援しようと思ったのかしら。棗先輩とのつきあいの方が長いんだから、普通はそっちの肩を持ちそうなものだけど」
そう問うと、二木さんは、黙ったまま僕の顔をじっと見た。
「そうだね……」
ふむ。
「恭介のことだけど、恭介は、もうすこし自分のことを考えてもいいと思うんだ。そりゃ、恭介が鈴のことを大切に思っているのは判るけど、それじゃ恭介自身はどうなのかって考えるとね」
「ふうん?」
「それで、いい機会なんじゃないかと思ったんだよ。天野先輩とは相性もいいと思うし。あれだけ無茶するんだから、よっぽど面倒見がよくないと、とてもつきあいきれないでしょ」
「バスターズのこと? 自分で言うかしら」
「自覚はしてるんだよ」
あきれた風の二木さんに、苦笑気味に答えると、二木さんはなぜか苛々としたように、とんとん、と靴で二、三度床をたたいた。
「ねえ、直枝」
「ん?」
「棗さんのことだけど」
「鈴がどうかしたの?」
「直枝は気づいてたの? 棗先輩が、直枝と棗さんを、その――くっつけようとしていたの」
ちょっと目を丸くした。その話、か。意外な展開だ。僕は少し黙り込む。二木さんはまた、僕の答えを待っている。今日は『どうして』が多い日だ。
「……まず、恭介がそう思っていたっていうのを、僕はちゃんと聞いたわけじゃないよ。ただ、何となくそういうことなんだろうなぁ、とは感じてはいた。でも……」
「でも、どうしたの。棗さんは、ちょっと難しいところもあるけれど、いい子よ。ずっと近くにいたんでしょう。それくらい判るはずよ」
二木さんの鈴の評価が意外に高いのに、少し驚く。でもまあ、それは今は置いておこう。
「そうだね……」
自分の感情の動きが一体どんなものだったのか、それを正確に思い出すのは難しい。時を遡れば遡るほど。
「確かに、そういうことを意識したことが全くなかったかと言えば、そうじゃない気がする」
よく思い出せないのだけど(ひどい話だ)、そんな心の動きが確かにあったような気も、する。だけど……
「だけど、なんていうのかな。決定的な機会はなかったんだ。鈴がどう思っていたのかも、知らないしね。それに――ああ、決定的と言えばたぶんこれが一番決定的な理由なんだけど――」
僕は思わず、くすりと笑った。二木さんが眉をひそめる。
「――二木さんを好きになっちゃったんだから、仕方ないよね」
ボン!――とマンガなら効果音がついているシーンだ――二木さんの顔が真っ赤に染まった。
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「まったく。朝から何てことを言ってくれるのかしら、直枝は……」
ぶつぶついいながら、二木さんはお茶(僕が淹れた)を啜る。顔が赤いのはまあ、だいぶ落ち着いてきている。
「まあ、そういうことだよ、二木さんの疑問への答えは」
「ああもう……」
二木さんはくしゃくしゃと頭を掻いた。珍しい。
「こういうのは、仕方ないんだよね。好きだと思っちゃったら、仕方ない」
「それは――そうかもね……」
なぜだか二木さんは、ひどく遠い目をして、独り言のように言葉を紡ぐ。
「仕方ない、か……」
僕は黙ってお茶を啜る。鈴のことを考えているのだろうか。あるいは葉留佳さん?
まあ、詮無きことだ。どういう経緯か不思議なものだけれど、僕はいま二木さんの隣にいる。それはほんとうに文字通り、他に仕方がないのだ。
「……もしかしたら、恭介の件も、そう思ってるのかも。僕は」
「どういうこと?」
「天野先輩が恭介のことを好きになっちゃったなら、それは仕方ないんだなって」
「そうね……」
何だか納得したようなふうの二木さんだ。
「だからまあ、天野先輩を応援するだけだよ、僕は。さっきも言ったけど、相性いいと思うし。もちろん、最終的には恭介次第なんだけど」
「どうなるかしらね」
「それこそ、神のみぞ知る、だね」
「神様じゃなくて聖人よ、ヴァレンタインは」
二木さんがいつも通り、細かいツッコミを入れた。
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やがて、スピーカーから無粋な予鈴が鳴った。
バレンタインデーの一日が始まるのだ。
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「行きましょう、直枝」
二木さんが立ち上がり、鞄を手に取った。僕もそれに倣う。
「それから」
その鞄をあけて、二木さんは、何かにラッピングされたもの――一目でわかる、チョコレートだ――を取り出して、僕の方にすっと突き出した。
「その、本命だから」
「あ、ありがとう……」
少し奇襲じみたタイミングに驚きつつ受け取ると、二木さんはすっと明後日の方を向いた。
「行くわよ」
「あ、」
歩き出そうとする二木さん――僕は思わず後ろから抱きとめた。
「!!」
びくりと肩が震えた。その肩越しに、僕は小さく言う。
「ありがとう――愛してる」
またもその顔が真っ赤に染まった。そして、
「あの……私、も……」
呟くような二木さんの声が聞こえた。
らぶらぶ!
……というにはまだまだという気もしますが、瀧川的には書いてて転げ回りそうでした。まだまだ修行が足りないな。