ポチの名前


 ポチのほんとうの名前を、あたしは知っている。
 いや、知っているというより、正確には『覚えている』といったほうが正しいだろう。なぜなら、彼は――天王寺瑚太朗、瑚太朗君は、その名を自分で名乗ったのでもないし、誰かに教えてもらったのでもないのだから。
 それにここでは、瑚太朗君の名前はあくまでもポチだ。瑚太朗君の名前が天王寺瑚太朗だということは、ただあたしがそそれを覚えているだけで、何ら確たる証拠があるでもなく、もしかしたらアウロラかなにかの悪戯に過ぎないのかも知れない。

 でも、あたしは確かに、覚えているのだ。
 瑚太朗君の名前を。
 他の誰が知っているでもなく、他の誰もが妄想と断じても、あるいはあたしの脳みそを心配しだしたとしても。
 それは確かなことなのだ。

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 ヒナギクの丘にアウロラの風が揺れ、あたしは瑚太朗君がやってきたことを知った。
 リボンで結ばれたあたしと瑚太朗君のあいだには、いつもアウロラのそよ風が吹いている。
 彼が近づいてくれば、その風がざわめくのがわかるのだ。

「ここにいたのか」
「おはよう、ポチ。どうしたの、こんな朝早くから」
「コトリこそ、学校はどうしたんだ」
「うへへ。サボり」
 やれやれ、と瑚太朗君は肩をすくめた。
「よくないぞ、それは。送っていこうか?」
「空を飛んで?」
「当たり前だろう」
 当たり前。
 そう、魔物――外宇宙さえ越えていく超長距離移動の能力を持った魔物なら、それは当たり前のように当たり前のことだ。
 分かってはいる、のだ。
「……ねえ、ポチ」
「なんです?」
「学校いこ。歩いて」
「はあ?」
 どうして、と顔が問う。
「歩きたい気分なの」
「……」
 瑚太朗君は少し迷ったようだったけど、結局は苦笑いで頷いた。
「わかりましたよ、お嬢様」
「うん!」
 いつも瑚太朗君は優しい。
 だれにでも、じゃないといい。
 んだけれど。
 今度は物理的な春の風が吹いた。
 冬は終わりつつある。
 急いで歩けば二時間目には間に合うかも知れないけれど、でも今日は、できるだけゆっくり歩いていきたい。
 こんな時間が、いつまでも続くわけではない。
 大切にしたい時間なのだ。
 


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