思っていたよりも遥かに遠い「さよなら」


 もちろん、瑚太朗君はポチであって、ポチでしかあり得なかった。
 それは、もう本当は、ずっと前から分かっていたことなのだけれど。

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 瑚太朗君は……いや、ポチは、激しく泣くあたしを扱いかねて、結局は屋台のおじさんが(なぜか)フォレストのマスターに連絡してくれた。
 フォレストにつく頃には、ポチがあたしを呼ぶ声はもう、いつものポチに戻っていて、あの一瞬の声色があたしの勘違いなのか、妄想なのか、わからなくなってしまっていた。

 そしてあたしは、ただただ、あたしの記憶の渦巻く奔流にあらがうこともできないまま立ち尽くしていた。
 頭が割れんばかりに悲鳴を上げているような気がしたが、それもよくわからない。
 ほとんど無限の可能性の記憶の分岐の、あらゆる枝に瑚太朗君がいた。そのすべての瑚太朗君が、あたしの心臓を鷲掴みにして、ぐちゃぐちゃにした。
「瑚太朗君」
 声に出すと、そこが病室だと気づいた。
 お母さんが泣いていた。喜んでいたのだと思う。あたしが意識を取り戻して。
 でも、あたしは奇妙に実感がわかなくて、壁にもたれかかって腕組みをしている今宮さんのほうを見やった。
 今宮さんは、難しい顔をしていた、と思う。
「嬢ちゃん、いろいろあるだろうが、すこし深呼吸をしろ」
 言われるがままに息を吸った。思うように喉が動かない。
「そうそう……それでいい。悪くない」
 すう……はあ……とただ息をする。
「そう、そうだ……」
 息を吸って、息を吐いて。
 息を吸って、息を吐いて……
 そうしているうちに、
 ひどい頭痛がだんだんと去っていって。
 それと同時に、気づいたときには、あたしの意識は、ふうっと閉じられるところだった。

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 夢、なのだと思う。
 あたしは森のなか、ぽっかりと開けた草原に寝転んで、空を見上げていた。
 森には時々、こういうふうに空が見える場所がある。
 たとえば大きな木が枯れて倒れると、その木があった場所は、ぽっかりと穴が開いたようになるのだ。
 実際、あたしの隣には、それなりの大きさだっただろう木の根が、ひとりでぽつりと佇んでいた。

 ――こうして、森にぽっかりとあいた穴から空を見上げるのは、好きだ。
 空は広く、森もまた広い。
 その境目にあいた小さな穴から、あまりにも濃厚にむせる森のただ中から、あたしは空に焦がれている。

「こんなところにいたんですね」

 声がして。
 聞き覚えがあった。

「……津久野先生」

 その声の主は、森の木々の陰から、あたしの寝転んでいる方へと、静かに歩み寄ってきた。
 『機構』のガイア側の人で、あたしの技術的な師匠、でもあるひとだ。

「――今宮さんに、聞きました」

 そのひとことで、状況を理解した。
 どこまで、とは敢えて聞くまい。
 隠すべきことは、もはや何もなかった。

「……ご心配、おかけしました」

 あたしの言葉に、津久野先生は、ちょっとだけ笑ってくれた。

「いいんですよ。生徒は先生に多少の迷惑をかけるくらいが、ちょうどいいんです。それに――」

 すこしだけ、躊躇って。

「――あなたのほうが、私よりずっと大変なはずですから」

 その言葉は、やはり、あたしの胸を、ぎり……と少しだけ絞めた。
 痛い、と思った。

「大丈夫……ではないと思うけど。でも、今話しておいた方がいいと思ったの」

 黙って、頷く。
 話。
 考えるまでもない、瑚太朗君のことだ。
 あたしの同意を見てとって、津久野先生は、あたしの横にごろりと横になった。
 ふわりといい香りがする。

「魔物がどういうものか――今更復習する必要はないわね、あなたに」

 また、黙って頷く。
 津久野先生の授業でも何度も聞いた話だ。
 それに。
 ――少し迷ってから、付け加えた。

「お父さんと、お母さんのときに」

 津久野先生 は、何のことか、とは問い返さなかった。
 知っていてくれたのだ。
 たぶん、ずっと前から。

「天王寺君、もね」

 何かを言いかけて、ふう、となにか深い息のようなものを、津久野先生はした。

「……魔物。単に事実として、彼は魔物よ」

 それは、分かっていたことだった。
 最初から。

「授業のときにも何度も話したことだけど、人間と魔物は、決して対等な関係にはならない。使役する側と使役される側。意志のあるものと、意志のないもの」
「!! でも……!」

 言葉が続かなかった。
 その原則は、お父さんとお母さんのときに、いやというほど分かっていた。
 たとえ人間をもとに魔物が作られたとしても、生きていた時と同じような仕草で、同じような言葉を話しても、それは単に、魔物の材料になった肉体のクセのようなもので、意識が残されているとか、そういうものではない。
 決してない。
 決して。
 ポチはもう、瑚太朗君ではないのだ。
 あたしと瑚太朗君は、もう、あたしと瑚太朗君の関係ではない。
 あたしが使役し、瑚太朗君が使役される。
 ただ、それだけの関係なのだ。
 そんなことは、とっくに。

「……わかって、ます」
「そうね。あなたは聡明な子だから」

 そうかも知れないが、今ばかりは愚かでありたかった。
 そんなことを分かりたくなかった。
 涙がこぼれそうになる。
 手で拭うのは、いやだ。
 ぬるいものが目尻からこぼれて、こめかみを伝って落ちていくのがわかった。

「……あなたの先生としてね、神戸さん。教えなければならないことがあるわ」
「これ以上、なにを……っ」

 嗚咽に言葉が途切れた。抗議だった、と思う。
 が、津久野先生は今度は――敢えて、だと思う――言葉を続けた。

「彼はね、あなたよりもずっと遠くに行くわ」
「え……う……?」

 その言葉の意味が分からない。
 津久野先生は、一瞬だけ目を閉じると、それから――決然と口を開いた。

「あなたがたどりついた星で、あなたが人間として死んでも、天王寺君は――彼は、次の魔物使いの手で、また星間宇宙を駆けるでしょう。天王寺は、あなただけのものではないの。彼は――人類のものなの。人類の希望。彼を操る役目は、必ず誰かに引き継がれる。もし仮に、貴方が死ぬまでその役目を果たし続けたとしても――そのあと何万年、何億年と、彼は宇宙を飛び続けるのよ」


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