母と子と


 恋愛感情というものにあまり縁のない人生だったけれど、それでも恋心なるものを抱いた瞬間があるなら、たった一度きり、時間にして一分もなかったかも知れない、あの七年前の一瞬だったのだろう。

「西九条、女の子をひとり保護してくれないか」

 その人は、今宮の渾身の一撃を児戯に等しいと言わんばかりにあしらい、そう言った。
 力量の差というのではなかった。常識はずれですらなかった。ただシンプルに、まったくの別物だった。私たちと、ではない。恐らくは、人類というものとだ。
 しかしそれでも、なにかの決意に満ちた眼差しと、その女の子のことを口にしたときに、ほんのわずかだけ覗いた優しさは――そう、私の心臓をどこかに釘付けにしたと思う。

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 それが、私の大切な小鳥のことだと、この子に分からないはずがない。
「……そのひととは、どうなったの?」
 小鳥はそう訊いた。

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 もちろん、何があるはずもなかった。
 そのまま彼は 『篝火を掲げ』て歴史の彼方へと消えた。
 彼の足取りはガーディアンでも明確に掴めてはいない。ガイアと関わりがあったことは明らかだが、それが内通と呼ぶものかどうかも分からない。

「あいつは結局、あいつ以外の何者でもなかったんだろうな」

 いつか、『変化』からしばらくたった頃、今宮はそう言っていた。

「どちらかの味方でもない。ダブルスパイでもない。ただ、あいつはあいつの目的のために、俺たちもガイアも利用した。そういうことさ」
「……」
「利用されただけ、って思いなさんなよ。あいつは、俺たちとガイアと、その両方の上に立っていたんだ。そのどちらが欠けても、今の状況はなかった」
「そう……ね」
「そうそう。だから、俺たちもやるべきことをやったんだと思うぜ」

 今宮は意外にも、今の状況をうまく受けいれているようだった。
 こいつは――器用だ。少なくとも、器用に振る舞うことができる。
 どこででも、どんな状況でも、それなりに上手く生きていけるタイプの人間だろう。

 ……自分は、どうなのだろう。

 今でも、あの瞬間のことを思いださないでもない。
 思いだすと、心のどこかが小さく震える。

 それでも――。

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「――あなたたちがいるから、私はそれで生きていける。私の大切な子供たち」
「瑚太朗君、なんだよね」

 私は黙って頷く。
 あのときの小鳥を誰かに託そうと考えるひとなど、他には考えられない。
 少しの躊躇のあと、小鳥は小さな声で訊いた。

「お母さんは――瑚太朗君のことが――」

 言葉尻が、消えた。
 思わず、笑みがこぼれた。
 やっぱり、この子は恋をしているんだなあ、と思った。
 それは、なんだかひどく懐かしい感触がして、だからこそ、それは私にとってもう、過ぎ去ってしまった季節なのだと今更ながらにわかった。

「昔、ちょっとね。だから、言ったでしょう。昔話って」
「――」
「最初は、天王寺に託された――っていうことは、もちろんあった。でも、今はそんな事に関係なく、あなたたちが一番大切な私の家族。あなたは私の大切な娘よ」

 言って小鳥の背中をゆっくりと撫でる。
 小鳥は少しだけ身をよじって、私の胸に顔を埋めるようにした。

「――後悔、してるの?」
「たぶん、違うと思うわ」

 すこしだけ、自分の心に問いかけてみる。

「あのときの私に、できることはなかった。だから、後悔じゃないのね。きっと。それに、素敵な出会いがあった」

 それは、今私の腕の中にいる小鳥、あなたのことだ。
 あなたたち5人の、大切な娘のことだ。
 だから。

「だから、あなたのお母さんとして言ってあげられることがある。ねえ、小鳥」
「……なに?」

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 ――手を繋いだら、離さないようにしなさい。失ってしまわないように。
 ――思っていることは、言葉にしなさい。すれ違わないように。
 ――為すべきことがあるなら、迷わずにしなさい。過ぎ去ってしまう前に。

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「天王寺は、あなたの手の届くところにいるわ。だから、後悔のないようにね、小鳥」

 そう言うと、小鳥はおずおずと、でもしっかりと頷いた。
 それでいい、と私は思う。
 私はそれでいいのだ。
 この子が未来を紡いでいけるなら、それは、私が生きてきた意味がある、ということなのだから。


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