記憶の篝火


 夜だった。
 天王寺家――だった、その一軒家の合い鍵を彼のご両親から預かったのはずっと前(本当に、ずっと前)だったから、鍵が付け替えられている可能性もないではなかった。が、あたしの合い鍵は鍵穴にすうっと吸い込まれていき、そっと回すと音もなくするりと回った。
 ドアノブを回して扉をそっと開き、玄関に足を踏み入れる前に、ふとまた空を見上げた。
 月は変わらずそこに輝いていた。
 晴れ渡って雲はなく、ひどく冷えて澄んだ空に、満月であった。
 月はまるで、自分たちを、あるいは自分を見守るかのように、うっすら揺葉色に光を放っている。

 瑚太朗君のご両親は、7年前に風祭を離れたと聞いている。それ以来、この家に住む人はいない。廊下を歩けば普通の一軒家にも見えるが、部屋を覗けば家具のひとつもないがらんとした空洞だった。
 それでも遠い記憶に覚えのある暗い廊下を抜け、階段を上がる。みしり、と足元がわずかに音を立てた。
 人が住まなくなった家は、早く傷むという。
 あるいはこの家は、もはや空き家ではなく、廃墟であるのかも知れなかった。
 そんなことを思いながら階段を一歩一歩あがる。

 階段をあがりきると、廊下の向こうに、瑚太朗君の部屋があった。
 (何かいる……)
 ドアの隙間から、緑色がかった燐光がこぼれ出ている。
 考えるまでもない。
 彼女が待っているのだ。
 やはり、だった。
 会えるなら、ここだと思ったのだ。

 彼女は、黒いビロードと赤いリボン、それに銀色の髪を、彼女自身が放つアウロラにはためかせて、部屋の真ん中にぽつねんと立っていた。
 彼女は、少し笑ったように思う。

「■」

 一言つぶやくと、彼女は右手のリボンをあたしの方に伸ばした。
 まるで、握手みたいだった。
 だからあたしは、そのリボンをそっと握った。
 伸ばされた手をとるように、優しく、でも力強く。

「■」
「うん」

 あたしは頷いた。
 それでいい、と思った。
 彼女が芽を閉じると、リボンは、、ぶわりと見る間に拡がって殖えた。まるで蔦のように、草のように、木々のように、森のように。
 それらかあたしを覆い尽くし、そしてあたしがそれらを呑み込んだとき、彼女にはもう、ひとかけらのリボンしか残されていなかった。
 それを彼女は、あたしの方に差し出した。そのリボンは、まるで園芸用のごつごつしたハサミのようなかたちをしていた。
 差し出された握りを掴む。
 ハサミを自分の手に取る。
 為すべきことを為しなさい、そう言われているような気がした。
 たぶん、そうなのだろう。
 だからあたしは。
 最後に、彼女の瞳をもういちどだけ見て、
 それから、あたしは、そのハサミで、
 彼女のハサミで、
 彼女の胸を、
 ひと思いに――貫いた。


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