3.正常性バイアス(1)


 風呂から上がると、恭介からメールが来ていた。
『ちょっと話がある』
 何だろう。ぴぴぴと返信する。
『どうしたの?』
『ちょっと中庭にいいか?』

 恭介はもう先に中庭に来ていた。ベンチに座ってこちらに向かって手を挙げた。
「で、どうだったんだ、理樹」
「どうって、どういうことだよ」
「帰りに一緒にケーキ食べてきたんだろ。」
「……どこで聞いたのさ、それ」
「夕飯、あんまり箸が進んでなかったじゃないか。それじゃきっと喫茶店でも寄ったんだろうと思ってな」
 飄々と恭介は言ってのけた。でも今日に限っては、それはちょっと地雷だ。
「どうもなにも。普通だよ」
「そうか?」
 僅かに――ほんの僅かだけれど、不満が声に混じっている。
「そう。特になにもなし」
 恭介に言うことでもないと思う。これは鈴のプライベートだ。
「……そうか。それならそれでいい」
 恭介の声がすっと醒めた……気がした。
「恭介?」
「すまん、あまり気にするな」
「……」
「そろそろ冷えるな。部屋に戻るか」
 僕は頷く。確かに寒い季節になってきたのだ。

 恭介は先に寮の方へと戻っていった。
『これって、デートっていうのか?』
『あたしは理樹が好きなのか?』
 鈴の声が思い出された。
 前者については、まあそうとも言えるだろう。後者についても、好きか嫌いかなら、好き、なんだろう。
 しかし、全体として鈴の問いに含まれる文脈には……よく判らない。たぶん鈴もよく判っていないのだろう。
 もしなにかしっかりとした自覚があるなら、まさか僕に問いはするまい。鈴といえど、そこまで抜けてはいないはずだ。たぶん。
(いったい、何なんだ……)
 僕はひとり首を振った。
 よく判らない事態に巻き込まれている……そんないやな予感が、微かにした。
 鈴も――もしかしたら僕も――なにか重要な姿勢制御を失っているような……まるでなにかにお膳立てされているような、誰かの物語の登場人物のように動かされているというか――

『この世界は――偽物なんだよ?』

 そのいつかの言葉の主が――いつのまにか僕の目の前に立っていた。
「み……美鳥さん……?」
 彼女――西園美鳥は妖しく微笑む。月明かりの下で。

(続)


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