3.正常性バイアス(2)


「理樹君、『正常性バイアス』って知ってる?」
「正常……なんだって?」
 聞き返すと、美鳥さんは自分の口元を差して、
「わかる? せいじょうせい・ばいあす。正常性バイアス」
「ううん……聞いたことないな」
「そうかあ……」
 それじゃどうしよう、と美鳥さんの顔が語っている。
「ええとね、理樹君は今、何か違和感……のようなものを感じていたりする?」
「え?」
「なんとなくそういうふうに見えたんだけど。違うかな」
「……」
 そう……ではある。
 けれど。
「あんまり話したくないって顔してるね」
 その通り……だった。この問いにもなんとなく、答えたくない。
「さっき言った、正常性バイアスっていうのはね、要するに、『そういうことほど大切にした方がいい』っていう教訓、みたいなものなの」
「いきなり話が飛んだね。どういうこと?」
「人間にはね、何か異常なことが起こっていても、それが正常の範囲内の出来事だと誤認したがる、そう……傾向、みたいなものがあるんだ。それが正常性バイアス。わかる?」
「……これくらいまだ大丈夫だろう、みたいなもんかな」
「当たらずといえども遠からず、かな。もちろん、その逆で、ちょっとのことで心配したりしても、それはかえって神経質ってことになっちゃうんだけど」
「程度問題だって?」
「そういうこと。正常性バイアスが過剰に働いていると、本来異常だと見なすべき事象に対しても、正常だという判断を下してしまう
「……」
「そして、気がついたときにはもう、手遅れになっている……ってわけ。たとえば……タイタニック号って知ってる?」
「ええと……大昔に沈んだ豪華客船だよね」
「そ。そのタイタニック号の沈没事故で逃げ遅れた人なんてのは、さっき言った過剰な正常性バイアスがかかってたんだろうね」
「つまり……これくらい傾いていても、まさか船は沈まないだろう……と?」
「そういうこと。なにしろ世界一の豪華客船だから……と思っちゃうわけ」
「ふうん……」
 なるほど、納得できる話だ。
「でも、それが僕とどういう関係があるのさ」
「理樹君、きみは今、正常性バイアスの罠にかかっているんじゃないかな」
「どういうことだよ」
「それはわからない。でももし、理樹君が『何か違和感がある』と思うのなら、それは大切にした方がいい。これはアドバイスだよ。友達としてのね」
「友達?」
「そう。理樹君が忘れちゃってるのは仕方ないけど、私はそう思ってる。まあ、一方的な話だけどね」
 違和感、と僕は考える。
 鈴と……恭介。
 ほんのわずかだけれど、たしかに違和感がある。
「正常と……異常……」
「そうそう」
 美鳥さんが大きく首を振った。
「正常と異常。その境界線を見失わないでね、理樹君」

(続)


戻る