7.無限回廊(1)


 謙吾に言われるがまま、恭介は寮の自室へと向かった。
 やはり、疲れてはいる。健康を維持するための方策はいろいろと練ってはいるものの、不自然な――人間の域を超えた作業だ。人間の心身の構造で耐えられるかどうかは判らない。
 判らない、が……やらねばならぬ。
 恭介はその一心だった。

 部屋に帰り着くと、上着を脱ぐのも面倒になって、そのままベッドに倒れ込んだ。意識して力を抜くと――これも身につけた技術の一つだ――堅いマットに敷かれたシーツの感触が背中全体に広がった。
 このまま半時間も目を閉じていれば、体力はそれなりに回復する。夕飯時を乗り切るには十分だろう。それから風呂に入ろう。今日はシャワーだけじゃなくて、湯船につかろう……。
 そんなことを考えていると、無意識のうちにまぶたが閉じられた。

 目覚めはいくらか快適だった。
 頭を振る。
 時計を見る。
 ベッドの上に半身を起こすと、首と肩を回して調子を整える。よし。

 扉を開けて廊下に出る。外はもう暗い。夕飯時だ。妙に静かだ。みんな学食に行っているのだろうか。それにしても部屋で飯を食っているやつもいる。女子寮には敵わないだろうが、自炊派もいるのだ。しかし、その物音もしない……。
 はっと棗恭介は顔を上げた。
 長々と考えすぎている――長々と歩きすぎている。
 この廊下は、そんなに長かっただろうか?
 廊下の先を見る。延々とつながっている。昇降口が――ない。
 ゆっくりと背後を振り返った。同じだった。
 ここは、どこだ。
 また、おれの知らない何者かが……紛れ込んでいるのか?
 棗恭介の目がすっと細められた。
 鼠は狩らねばならない。

「ずいぶん怖い目してるじゃない、棗くん」

 声に猛然と振り返った。そこに見知った顔があった。女子寮長――元女子寮長だ。
 悪戯そうな目はいつも通りだが……それがなにか不吉な様相をしていると思った。
「天野」
「ふうん?」
「ここは、どこだ」
「それがさ、わたしも困っちゃって。いったいどうなってるのかしら、ここ」
「……」
 恭介はじっとその目を観察した。真意が読みづらい目だ――いつもながら。
「出口が、見つからない」
 慎重に明白な事実だけを告げる。その原因を排除しなければならない。
「『その原因を排除しなければならない』って思ったでしょう」
 反射的に動こうとする体をなんとかコントロールする。
「そりゃあ、な。このまま廊下に閉じ込められちゃ、かなわない」
「わたしも同感ね」
「それにしては怖がっていないな」
「棗くんだって、そうでしょ」
「俺は男だ」
「こんな明白な異常事態に、男も女も関係ないわよ」
 こいつはそういう奴だったか。
「とにかく歩いてみましょ。何かあるかもしれない」
「何もないかもしれない」
「行ってみないと判らないわ」
「そりゃ……」
 言葉に詰まる。正論ではある。
「……とにかく、行こう」
「それがいいわね」
 ふたりは歩きだす。

 歩きながら、棗恭介は考える。
 何者かが……干渉している。
 これは妨害行為だ。
 悪意を持った干渉だ。
 排除は容易だ。なにしろ棗恭介は『マスター』なのだ。
 だが、こうして仕掛けられている以上、鼠の尻尾を捕まえる必要がある。暴力的な手段に出るのは避けるべきだ。

「棗くん」
「何だ」
「部屋番号、見て」
「……?」
 言われるがままにして、棗恭介は固まった。
 888号室。
 ここは1階だ。101号室から124号室までしかない。そのはずだ。
「さっきから、右も左も、ぜんぶ888号室よ」
「本当か」
「確かめてみればいいじゃない」
 恭介は歩き出す。天野がその後を追った。
 歩きながら恭介は両側を交互に眺める。そのすべての部屋番号が888だった。
「どれだけ歩いたかも判らないな」
「おまけに前とうしろ、区別がつかないわね」
 天野の指摘は正しい。廊下は左右対称、前後対称に広がっている。現在位置を示すものは、何もない。
 恭介は無言でひとつのドアに歩み寄り、無造作にノブを握る。回る。ドアを開け放った。
 室内に明かりはついていない。ベッドが据え付けらえれている。生活のあとはない。
「誰もいないわね」
「恐らくな」
「たぶん、隣の部屋も?」
「同じだろうな」
 ため息をつく。ふたり同時だった。
「どうするの、棗くん」
「いざとなれば、何とでもなるが……」
「乱暴なのはダメよ」
「この期に及んで何を言っているんだ」
「最後の手段ってこと」
「だが、これ以上できることなんてないだろう」
「もうすこし先まで歩いてみましょうよ」
「同じ廊下が無限に続いているだけだろう」
「それは推測でしょう。もしかしたら次の部屋は変化があるかもしれない。次の部屋は変わらなくても、いつのまにかいつもの寮に戻ってるかも」
「お前も見ただろう。学習しろよ」
「だから、この永遠に変わらない廊下を歩き続けることに意味はない、と?」
「そ……」
 肯定しかけて、棗恭介は凍りついた。
 目の前の天野が、にたあ、と笑ったのだ。
 廊下から差す光が逆光になってその表情は判らないはずだが、しかし天野が――哂った――のはなぜか、恭介には判った。
「お前……」
「まさか、棗くんが、歩き続けることを否定するとはね……?」
「何のことだ」
「永遠に繰り返して、何も変わらないように見えても、小さな積み重ねが変化を呼ぶかも知れないじゃない?」
「!!」
「これはアナロジーよ。棗くん、この廊下は、あなたが歩き続ける道なのよ。わかる?」
「お前は、何者だ」
「さあね?」
 ぞわりと天野の影がうごめいた。
「でも、あり得る解は……判っているんじゃないの? 棗くん……いや、マスター?」
 何故そのことを、と恭介が思うや否や、ぱらぱらと天井が崩れ落ちてきた。
 見上げる。
 違った。恭介には判る。
 これは世界が崩壊しているのだ。
「天野……!!」
 光と影が粒子になって消えていく中、天野は艶然と腕を組んでいた。
『これはアナロジーよ。棗くん、この廊下は、あなたが歩き続ける道なのよ』
「これが俺の行く末だと……言いたいのか……」
 いや、今はそれどころではない。この世界を脱出して、俺の世界に戻るのだ。鼠が天野かどうかは知らないが、狩るのはそのあとで何とでもなる。俺はマスターなのだ。
 恭介は懐に手を突っ込んで、懐中時計を握りしめた――

 はっと恭介が目覚めると、見慣れた天井がそこにあった。いつもの、彼自身の部屋の天井だ。
 しばらく呆然と眺めあげる。
「……夢……だってのか……?」
 はっと気がつけば、全身、ひどい脂汗をかいている。
 悪夢……だったのか?
 かち、かち、と秒針の音が聞こえる。
 夕食の時間だった。
 が、さっき目覚めたときもそうだったのだ。
 朦朧とする頭で考える。ここは、どこだ……?
 と、ケータイがぶるぶると震えた。
『棗鈴』。
 ボタンを押す。
『おい、きょーすけ。夕食は喰わんのか』
「いや……」
『?』
 電話の向こうで、鈴が首をかしげるのがわかった。
「すまん、寝てた」
『……馬鹿兄貴が。心配して損した』
「悪い悪い。今行くよ」
『いいから早く来い!』
 ぷつりと電話は切れた。どうやらここは現実らしい。

 ……現実?

 恭介の唇の端からこぼれたのは、嘲笑だった。
 まさか。ここが現実でなんてあるはずがないだろう……。

(続)


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