23.気違いのお茶会


 放送室の機材にはほとんどカバーが掛けられていて、おまけに埃をかぶっていた。教室の入り口にそう書いていなければ、そこが放送室である、ということすら一見判らないような様子だった。
 そのなかで、安っぽい電子ピアノだけが、丁寧に掃除され、黒が静かに光を湛えていた。
「まあ……まずお茶でも飲むかい?」
 彼女はそう言って席を勧めてくれた。
「本当なら中庭でお茶会と行きたいところだが、もうずっと長いあいだ、あそこには行っていないものでな……」
 言われるがままにパイプ椅子に腰掛ける。ギィ……と錆が軋む音がした。

 彼女の言う『お茶』とは、どうやら紅茶のことらしかった。彼女がティーセットでお茶を淹れるあいだ、僕はじっと黙って座っていた。その手つきはきびきびとしていながら丁寧で、慣れている……というか、お茶が好きなんだなぁ、ということがよくわかった。
 やがてこぽこぽとティーカップに紅茶が注がれ、そのひとつが僕の方にすっと差し出された。
「まあ、飲め」
「……いただきます」
「うむ」
 言葉少なにして、ティーカップを取る。音を立てないように啜る。ほんわりと広がる香りが鼻腔をくすぐった。
「おいしい……」
「うむ。定番だがアールグレイだ。悪くなかろう」
「うん」
 頷くと、彼女は満足そうに目を閉じた。

 放送室は灯りもつけられていなくて、窓から差し込む――それも直射日光ではない――光がうっすらとその内部を浮き上がらせているばかりだった。
「あの……」
「ふむ?」
「ここ、放送室なんですよね」
「そうだ」
「あったんですね、そんな部屋」
「昔はたまに、昼の放送なんかをしていたものだがな……」
「そうなんですか」
「まあ、誰も覚えていない。そんなものだ」
「……」
 誰も覚えていない、か。
 確かに自分の記憶にも、昼に何か……放送があった覚えはない。教室のスピーカーから聞こえてくるものと言えば、チャイムくらいのものだった。
「でも、ちょっと……寂しいですね」
「何がだ?」
「その……誰も覚えていない、って」
「そうか……」
 彼女は窓の外をちらりと見た。それから、僕の方に視線を戻す。位置が少し変わったのか、その顔に影が落ちて表情が読めない。
「ところで……キミは、私の名前を知っているか?」
「え……」
 記憶を探る。が、覚えがない。
「すみません、その、覚えてなくて……」
「そうだろう」
 彼女は淡々としたものだ。あまり人に覚えられないたちなのかも知れない。
 が、次に彼女が発した言葉は、あまりに突飛だった。
「実は私も、私の名前を知らない」
「……は?」
 間抜けな聞き返し方になってしまった。
「実は・私も・私の・名前を・知らない」
 単語を区切るように、彼女はもういちど言った。
 返す言葉がなく、僕は絶句した。それを見るや、彼女は涼やかに笑った。
ここに長く居すぎるとな、そうなる」
「ここ……って、放送室ですか?」
 なんだそのファンタジーは。
「いや」
 彼女は首を振る。
「放送室という意味じゃない。この世界さ」
「世界……?」
「たとえば、そうだな……キミはキミの名前を覚えているか?」
 首をかしげた。どういう意味だ?
「いいから、答えろ」
「その……」
 口を開いて、そのまま固まった。続きが……出てこない。
「え……?」
「そういうことだ」
 彼女は淡々といい、ティーカップに口をつける。そして、それが空になっていることに気づくと、ちいさく肩をすくめてティーポットに向かった。
 こちらに背中を見せながら、彼女は続ける。
「キミがここにいるということは……つまり、キミがこの世界にいるということは、キミ自身もこの世界の理に支配されているということだ。私よりもすこし後にきたみたいだから、まだ自分の名前くらい覚えているかと思ったが……ダメか」
 それから振り返ると、
「キミももう一杯、どうだ?」
 わけがわからないまま……首を振る。
「それがいい」
 彼女はほんの少し残った僕のティーカップを流しで逆さにすると、また温かい紅茶を注いでくれた。湯気が立ち上る。手を伸ばす。湿っていて、温かかった。

(続)


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