24.世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド


 ティーカップを唇から離し、デスクに置くと、彼女は話を再開した。
「ここは……たぶん、ある種の『世界の終り』なんだろう」
「世界の終わり?」
「ああ。『終り』は、ひらがなの『わ』を抜くと、もっと据わりがいい」
 彼女は人差し指をデスクに走らせた。『終り』、と僅かに積もった埃の上に読める。
「世界の終り……」
「そうだ。村上春樹を知っているか?」
「村上春樹……? たしか、作家ですよね。何か賞を取ってた」
「ふむ、そうだな。賞なら山ほど取っているが……まあ、そんなことはどうでもいい。彼が書いた話のなかに、『世界の終り』に関するものがある」
 彼女は――名前のない彼女は、傍らから2冊の文庫本を取り出した。
「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』?」
「そうだ。賞というならこれは、谷崎潤一郎賞だったかな」
 いいながら彼女は、上巻の表紙をめくる。

 そこには、奇妙な地図があった。一見、ずいぶん旧い地図のようだが、よく見るとそれを模してあるだけで、活字で地名が書いてあった。
「『時計塔』……『煉瓦壁』?」
「そうだ。この街は、煉瓦の壁で囲われていて、まんなかに高い高い時計塔が建っている。そして、この街にやってきたものは、『影』を奪われ、二度と街の外に出ることはできない」
「……?」
「ここと、同じだよ」
「二度と……って、」
 すっと顔が青ざめた。
「言っただろう、ここは『世界の終り』だ。自分の名前も忘れ、やがては自分すら消えていく。永遠ということは、無ということと等しいからな……」
 意味がわからなかった。でも、僕は確かに自分の名前を忘れてしまって――そうだ!
「鈴……!」
 む、と名前のない彼女が眉をひそめた。
「なんだ、それは」
「僕の友達だよ。さっきまで一緒に猫と遊んでいたんだ」
「なんだと」
 彼女が目を見開く。
「キミは、その……名前を覚えているのか?」
「うん」
「急げ」
「え」
「その子は、キミの名前を知っているかもしれない。だが、何かの拍子に失われてしまう可能性は……高い」
 ぞくり、と背筋が震えた。
「行くんだ。そしてキミの名前を呼んでもらえ」
 僕の……名前を。
「急いだ方がいい。さあ」
 彼女が立ち上がった。がたり、椅子が音を立てる。

(続)


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