27.旅の仲間


「そうか、名前を思い出したか」
 名前のない彼女は、満足そうに頷いた。その前には、淹れたてのティーカップが湯気を立てている。
 その彼女に向かい合って、僕たちは――僕と鈴は――座っていた。鈴は紅茶にミルクと砂糖をたっぷりと入れていた。
「普通は、ここには独りで来るんだ。たぶん、そうだと思う」
「独りで?」
「そう。そうして何も思い出せなくなって、消える。さっきも言ったが、永遠と無とは等価だからな
「でも、僕たちは二人できた……」
 ちらりと隣を見る。鈴とはずっと一緒にいた。鈴はこくりと頷いた。
「珍しいケースだと思うよ、私は。もっとも、比較対照がないから、直感だが」
「そうなんですか?」
「ああ。今の君たちは、互いに名前を覚えている。呼ばれれば自分だとわかる。それではこの世界から消えることはできない。独りだからこそ意味がある世界だよ、ここは」
 鈴が唸った。
「よく……わからない」
「抽象的な話だしな。要するに鈴くん、君は理樹くんの名前を忘れるべきではないし、理樹君は鈴くんの名前を忘れるべきではない。そういうことだ」
「自分の名前よりも?」
「さっき忘れていたじゃないか、理樹君は」
 ……そういえば、そうだ。
「そういうことさ」
「でも……だったらなんで、その……あなたは僕たちとこうやって……?」
「それが謎なんだ」
 名前のない彼女は腕組みをした。
「だが理樹君、その鍵を握っているのはキミだぞ。なにしろ、私はこの部屋でピアノを弾いていただけで、キミがそこに押しかけてきたんだからな」
 顔を上げて鈴が問う。
「そうなのか?」
「うん。猫にえさをあげていたら、聞こえてきて……」
「それでかってにいなくなったんだな」
「う……ごめん……」
「はっはっは、それでパニックになっていたら自業自得だな、理樹君」
「面目ないです……」
 確かにそれは僕が悪い。
「ともあれ、このピアノ……というか、曲か?」
 名前のない彼女は立ち上がって、電子ピアノの前に腰を下ろす。指が鍵盤を舞う。旋律――。
 奏でながら、名前のない彼女はぽつり、ぽつり、と話しだす。
「この曲がどういう曲なのか、どういう意味を持つのか……それは私にもわからないんだ。だが……」
 名前のない彼女は少し俯いた。
「ここでは意味のないことは起こらない。だから、理樹君、キミがこれを聴くことができたなら、たぶんキミと私の間には、なにかの縁があったのだろう。大きいか、小さいかはわからないがな……」
「縁……?」
「そうだ」
 ピアノの音が放送室に静かに満ちていく。
 覚えがある光景のような……気がするだけかもしれない。
「なあ、理樹君、それに鈴君」
「……?」
「普通は黙って消えていくだけの世界で、こういう縁があった。それはほとんど奇跡みたいなものだ。きっとなにか意味があるはずだ」
 それは、まるで自分に言い聞かせているかのように、僕には聞こえた。
「それがどういう縁だったのか……三人で少し検討してみないか?」

(続)


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