不思議な感覚だった。
運動部。何でもこなす名前のない彼女はともかくとして、僕や鈴とは一番縁がなさそうな場所だ。だが、その部室棟の前に立つと、空気が少しやわらいだように感じたのだ。
「……」
鈴が小さく息を呑むと、一歩足を踏み出す。それから、ちらりと僕たちのほうを振り返った。
「たぶん――こっちだ」
「わかるのか、鈴君?」
「なんとなく」
僕は名前のない彼女と顔を見合わせる。
(どうする?)
(とにかく口を挟まないでついていこう)
口元に人差し指をたてるジェスチュアをして、名前のない彼女は歩き出す。
ギイ……と軋む音がして、扉が開かれた。
『野球部室』。
運動部の中でも硬派な方で……ほんとうに僕や鈴に、そして名前のない彼女にも関係があるように思われない。思われないが、何故かその部屋の空気はとても――親密だった。
とん、とん、と足音を立てて鈴が部屋の中へと足を進める。そして、床に置かれた段ボールの中をのぞき込むと、手を突っ込んでがさがさと探すようにして……それから何かを取り出した。
それは、グローブだった。
グローブを左手にはめると、ぽんぽん、と右手で調子を確かめる。頷く。
「理樹」
「うん」
「お前は……バットだ」
「え、そうなの?」
「たぶん」
鈴が指さす方には、バットが何本か転がっていた。
いくつかを握って、ちいさく振ってみる。上手く馴染むものが1本。
「それか?」
「うん、一番いい気がする」
「なら、それでいい」
後ろでは名前のない彼女がボールをいくつか見繕っていた。手にはグローブとミットもある。無言だ。
「行こう」
鈴が言って、部室を出ていく。僕たちはその後に続いた。
たどり着いた先は、下のグラウンドだった。陸上用じゃない、土のほうだ。
「鈴君」
「なんだ」
「そのグローブでいいんだな?」
「ああ」
「それじゃ、あそこだ」
名前のない彼女が指さしたのは、ピッチャーマウンドだった。
「そうなのか?」
「そのグローブは投手用だ」
「ふうん……そうしたら、理樹はバッターか」
「そうなるな。キャッチャーは私がやろう」
そう言う左手には、もうキャッチャーミットが填められている。
鈴と名前のない彼女がキャッチボールの要領でボールを投げ合い、それから投球練習を始めた。驚くべき事に、様になっている。これは……当たり、かも知れない。
そう思いながらネクストバッターズサークルでバットを振ると、腕や体や足にかかる感じに、僅かに覚えがあった。本当に野球部にいたのだろうか、僕は。それともこれは、ただ単に小さい頃にみんなで遊んだ記憶だろうか。
……みんなで?
そのイメージは一瞬で頭の中から流れ去ってしまう。だが……『みんなで』。僕は確かにそう思ったのだ。間違いない。この動作は、僕の記憶につながっている。
やがて、名前のない彼女がこちらを振り返って、右手を大きく振った。どうやら、僕の打席らしい。