30.ライト・フライ


 打席に立つと、空は蒼に高く、山は緑に遠く、見渡す彼方まで広がる風景が見渡せた。その中心に、鈴がぽつりと立っていた。斜めから差す陽が、その表情に僅かな影を落としている。
 やはり……どこかで見たことがある光景だった。
(でも、それにしては……寂しい風景だ)
 鈴はこちらをじっと見ている。僕はバットを握りなおすと、足元を確かめる。ふっと息を吐くと、鈴に視線を返した。

「プレイボール」
 名前のない彼女の声が後ろから聞こえた。
 鈴は胸のまえで構えると、ざ……と左足をあげた。右腕が振り下ろされる。一瞬、
 すぱぁん……!、と音がした。名前のない彼女のキャッチャーミットに、ボールが収まっていた。バットを持った手は、動かないままだった。
「ストライク」
 審判代わりに名前のない彼女が宣告した。
「やるじゃないか、鈴君」
 そして、立ち上がって返球し、座り込んで……僕の顔を見上げた。にやりと笑う。
「これでは見送り三振だぞ、理樹君」
 僕は首を振る。打たないと何も始まらない。そんな予感がしたのだ。

 バットを握りなおす。鈴が足を上げる。二球目――
「……ストライク」
 名前のない彼女は無慈悲に告げる。空振りだった。振り抜いたバットを戻す。今回もダメだった。でも、そうだ、この感覚……。

 返球を受け取ると、鈴はじっと僕を見た。僕はバットを構える。鈴は本気で投げてくるだろう。それにあわせてバットを振るんだ。鈴が左足をあげた。その姿勢をじっと見る。右手が後ろに回される。頭の上を回って、その手からボールが離れる。白球――

 体が、ほとんど反射的に動くのが判った。濃厚な空気をバットが切っていく。やがて……インパクトの感覚。当たった。この重さ――ライトフライ? 今誰がいる?

 誰がいる、だって?

 カィー……ン……

 快音が響き、ボールは高い放物線を描いて飛んで――地面に跳ねて転がる。そこには誰もいない。誰も……

『わふーっ! 捕りましたっ!!』

……いない。

 呆然とボールを見送っていた鈴が、なにかを呟いた。そして、叫んだ。

「クドっ……!!」

 その瞬間、白い幻影が……見えた。手を振っていた。
「能美女史……」
 呆然と呟く声が聞こえた。
 そうだ。
 能美……クドリャフカ。クド。ロシアのクオータの、犬みたいな女の子。
 どうして忘れていた……!?

 そう思った瞬間、いくつもの影がグラウンドに現れた。
「はるかっ……みお……こまりちゃん……っ!!」
 鈴が次々とその名前を呼んでいく。
 三枝葉留佳。
 西園美魚。
 神北小毬。
 ああ、そして……
「くるがやっ……!」
 背後で、息を呑む気配がした。
 鈴が叫ぶ。
「みんなっ……!!」
 そう、みんな、だ――
 みんな――そうだ、それは――記憶が――

(続)


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