夏休みが終わり、学校が始まり。
気がつけば、吹く風には時折、もう秋の気配を感じられるようになっていた。
九月も半ばを過ぎた、そんな頃だった。
寮長から、恭介のところに行って欲しい、という依頼がやってきたのは。
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放課後、寮長室。
「棗くん、元気なくてね。あなたたちなら、なにかわかるんじゃないかって」
寮長がさらりと言い、僕らににっこりと笑いかけた。
「……」
僕の隣に立って、鈴は、なにも答えなかった。
――そっと、鈴の手を握る。
その手はしばらく迷うようにふにふにとしていたが、やがて、ぎゅっと僕の手を握り返してくれた。
「決まりね!」
寮長が、ぱん、と両手で柏手を打った。
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その夜。
りぃん、りぃん……と、草むらで秋の虫が鳴いている。
裏庭のベンチ、鈴は僕の隣で、何も言わないまま、ずっと空を見上げていた。
雲ひとつない澄んだ星空に、まんまるな月がぽっかりと浮かんでいる。
鈴の唇は強く結ばれていて、険しくはないけれど真剣な目差しだ。
考えていることがあるのだ。思っていることが――あるのだ。
僕は黙って待つ。
そのために、僕は鈴の隣にいるのだ。
やがて。
鈴が――ぽつり、と呟いた。
「恭介のやつ、なんで、あんなことをしたんだろうな」
あんなこと。
言うまでもない。
あの、永遠に繰り返される一学期。
箱庭の世界の出来事だ。
「それは……僕や鈴の――強さのため、だと思うけど」
こくりと鈴が頷く。
「そうだ。でも――」
すこし、言いよどむ。
「それだけじゃない。たぶん。なあ、理樹」
「うん」
「修学旅行の前のあたしは、どんなやつだった」
思いがけない問いに、咄嗟に言葉が出ない。
鈴は、笑った。
「そうだよな。答えなくてもいい。自分でもよくわかってる。ひどかったよな、いろいろ」
そう言ってから、鈴の表情が――すこしだけ、ほんのすこしだけ、変わった。
「なあ、理樹。あいつは――」
目尻が下がって、口元が上がって。
「――恭介は、あたしがあんなふうになったのは――」
……それはまるで、
「自分のせいだって思ってるんだ」
まるで、泣き笑いのような顔で、鈴はそう言った。
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あの日、君は僕の手を引いて、
弱くて折れそうな僕の肩を抱いて、
深い闇の中を、
どこまでも歩いた。
僕のために買ってくれた花火は、
鬱いだままでいて、それも無駄にした。
やり残した花火も手つかずのまま、
君はいつの間にか――笑わなくなってた。
(「Hanabi」より引用)
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週末は、よく晴れた。
郊外の病院は、そこここで人の気配はするけれど、声が聞こえることはない。
朝早いということもあるだろうけれど、とても静かな場所だった。
コンコン……と恭介の病室をノックするのは、僕の役目だった。
すこし身じろぎをするような気配がした。
「恭介、入るよ」
答えはなかったけれど、拒絶もない。
開けっ放しになっている病室に、そっと足を踏み入れる。
「……久しぶりだね、恭介」
「ああ」
ようやく恭介は、そう短く答えてくれた。
「元気か、きょーすけ」
「ああ」
鈴にも同じように答え、今度は小さく頷いた。
「それはよかった」
また、すこし沈黙があった。
「……最近、また新入りが増えたんだ。――猫の話だ」
「そうか。何ていうんだ?」
「ポールだ。レノンと仲がいいから」
「そりゃあいい」
恭介はすこしだけ、笑った。
「ポールはレノンと仲がいいのか」
「そうだ。何か文句あるか」
「いや――いいんじゃないか。悪くない、そういうのは」
「新学期になった。やっぱり、勉強はあんまりすきじゃない」
「知ってるさ」
「でも、理樹が教えてくれる。くるがやとかみおもだ。みんなやさしい」
「そりゃ、よかったな。ついていけそうか」
「なんとか……まだ入院しているやつもいるから、授業はゆっくりだ。でも、みんなそろそろ戻ってきてる」
「そうか。リトルバスターズのみんなは……」
「あとは謙吾とお前だけだ。でも、謙吾はもうすぐ退院できるらしい」
「そりゃ――よかった……」
恭介の答えに、鈴が――息を呑んだ。
僕の手を握る手に、ぐっと力が入れられる。
そして鈴は――静かに言った。
「早く、退院できるといいな」
答えは――なかった。
答えがないのだ。
それは、ただの確認だった。
鈴が息を呑んで、
そして、
激しい物音がして、
気がついた時には、鈴は――ベッド上の恭介に飛びかかっていた。
「俺は……」
恭介が、何かを言おうとした。
言おうとして、絶句した。
後ろから見ていても、わかった。鈴の目を見たのだ。
その鈴が、押し殺したような声で、言葉を紡ぎはじめた。
「おかしいと、思ってたんだ。
でも、今のおまえを見て、わかった。
おまえずっと、自分が助かりたいとか、助かってよかったとか、ひとことも言ってなかったよな」
そこまで一気に言うと、鈴は、何かひどく重いものを吐きだすようにして、でも、はっきりと――言った。
「おまえ、死にたかったんだろ」
恭介は、その言葉に凍り付いた。
「そうだよな。おまえ、ずっと死にたかったんだよな。修学旅行のときも……いや、たぶん――あのときからずっと――ほんとは死にたかったんだろ……!」
そう呟きながら、鈴は肩をふるわせた。
恭介の襟首を掴む手もまた、ぶるぶると震えていた。
「あいつはひどいことをした、だから仕方ない。そう言われて死にたかったんだよな。許せないって言われて――死にたかったんだろ。許せなかったんだろ、自分が。
でも、あたしひとりを残すわけにいかなくて、お前は頑張って……でも、あの事故で……お前は思ったんだ。あたしと理樹さえ無事に生き残れば――それであたしたちが生きていくことが出来るなら――お前、やっと死ねるって思ったんだろ!」
恭介の目が、はじめて――揺れた。それは、僕がついぞ見たことのない目だった。
「言っておくけどな――おまえを許すとか許さないとか、そんなことはそもそも、あたしは考えたこともないんだ。一度だってないんだ。おまえにいなくなられたら、困るんだ。おまえはずっと、あたしのことを見てきてくれたじゃないか……!」
鈴の声は、もう、ひどい涙声だった。
「もういいんだ、そんな昔のこと――わかってる!おまえにとっては昔じゃないんだろ!でも、いいんだそんなのは!だったらな、許されないと思ってるなら、あたしは何度だって許してやる。だから――いなくなるなよきょーすけっ!」
最後の方は、ほとんど言葉になっていなかった。
鈴は恭介をほとんど押し倒すようにして、その胸にすがりついた。
泣いていた。
そして、恭介もまた――泣いていた。涙をごまかそうとして、でも、隠しようのない嗚咽だった。
鈴が、絞り出すような声で言った。
「きょーすけ……おまえがいてくれたから、ここまで来られたんだ。いなくなったら、困るんだ。だから――死ぬなんて、言うな……」
恭介は、その両手をどうすればいいのかわからないかのように、わなわなと震わせて――そして、呟くように尋ねた。
「俺を――許してくれるのか――?」
その問いに――鈴はなにか、胸を抉られたような顔をして。
そして、張り裂けんばかりの声で、叫んだ。
「許してやるって言ってるだろ!何度も言わせるな馬鹿っ!」
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………………。
…………。
……。
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しばらくして病室に戻ると、鈴はなんだか、ばつの悪そうな顔で、こっちを見た。
「その、なんだ……」
ぽつりと、付け加える。
「理樹……ありがとう」
――別になにもしていやしない。
が、僕は黙って頷いた。
僕がいることでなにかの意味があるなら、それでいいと思った。
それから鈴は、急にぷいと顔を背けた。
「……もう来ないからな。早く戻ってこい」
素っ気ないふうを装って言い捨てると、足音を立てて病室を出ていった。
僕は、恭介のほうにきちんと向き直る。
「――また来るよ」
「ああ」
「でも、早く戻ってきてね」
「……わかってる」
そう言うと、恭介は何かに気づいたような顔をして、それから、納得したような顔になり、泣きそうな声で――言った。
「いや、わかっちゃいなかったんだな、俺は」
「いいんだよ」
そう。それでいいのだ、と思った。
「それじゃね、恭介」
「ああ」
その『ああ』は、病室にきた時に聞いた『ああ』とは全然違う響きのような気がして――僕は思わず微笑んだ。
僕はそれから小さく頷くと、ゆっくりと恭介に背を向けた。
そして、鈴の後を追って恭介の病室を後にしたのだった。